鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

スペイン滞在記 <29>

 

スペイン滞在記(2011年4月4日〜5月18日) <29>
2011年4月23日「ガウディ」


 バルセロナに来て、ガウディを知っておかないと話しにならない。毎日、目の前にしているサグラダ・ファミリアはガウディの作であり、今日見学した、外観であるがカサ・ミラカサ・バトリョも然り。いたるところにガウディの存在がある。土産物屋さんはガウディだらけである。少し、案内書を通してガウディを記録に残しておきたい。
 アントニ・ガウディ・イ・コルネットは、1852年6月25日、カタルーニャタラゴナ近郊レウスに生まれた。父は腕の良い銅細工職人で、母方の祖父も祖父祖も同じ職業であったという。周囲はほとんどが職人で、職人達によって金属が形を変えて、一つの物に作り上げられていく様子や、村中に響き、こだまするさまざまな音を聞いてアントニは育ったのである。しかし、アントニは自然の中にいるほうが好きであった。ひとりで古代ローマの遺跡で遊び、ブドウやオリーブの畑を歩くことがよくあったそうだ。ガウディの独特な造形感覚や自然に対する観察力は、タラゴナでのこうした環境にはぐくまれていたのである。バルセロナの建築大学に入学したのは21歳の時である。しかし、貧しかった家は、彼のために学費を援助するのは困難であった。そのためアルバイトをしながら学んだのである。数人の建築家のもとで製図工としての仕事をしながらの勉学であり、そのため成績がよくなかったとも言われる。しかし、建築実践の場で働いたことが、後の力となるのである。1878年に建築大学を卒業する。卒業するや個人住宅カサ・ビセンスの設計をまかされる。この住宅はイスラム様式とゴチック様式の折衷といえるもので、彼の作風が初期の頃から発揮されているとして評価されている。同じ年、パリ万博に出品する革手袋店からショーケースのデザインを依頼される。この作品が、後にスポンサー役となる織物資本家エウビセ・グエル(1846〜1918年)の目に留まることになる。そして次第に成功への道を歩むことになるのである。グエルの紹介によって多くの注文が来るようになる。時代もよく、19世紀はカタルーニャ産業革命の時代に入っていたのである。織物産業を中心として商工業が爆発的に進展し、バルセロナは大々的に拡張工事が進められ、そのため建築家や工匠の仕事は注文が殺到した。1884年、ペドラルべスのグエル別邸、86年にはランブラス近くのグエル邸、88年にはサンタ・テレサ学院などを製作し、初期の傑作が残されていくのである。この頃、片思いの女性とは結ばれなかったことで、彼は独身で生きることになるのである。
 

サグラダ・ファミリア



グエル公園



いろいろなカサ(家)



ガウディが31歳のとき、彼の人生を決定付ける事件がおきる。聖ヨゼフ信仰協会の本堂となるサグラダ・ファミリアの建設を依頼されていたビラールという建築家が、協会の人たちと意見が合わなくなり、竣工後1年で辞任してしまう。それで1883年11月に、その仕事がガウディに依頼されてきたのである。ガウディはこの仕事を「聖ヨゼフの奇跡」と信じたという。彼は全力をあげてサグラダ・ファミリア大聖堂の建築に挑んだのである。しかし、一協会の聖堂としては壮大すぎるサグラダ・ファミリアの建設は資金難に直面する。もはや老境に達しているガウディ自身も資金集めに東奔西走するようになるのである。節約を重ねて粗末な服をまとっていたので浮浪者と間違われることもあったという。1926年、路面電車にはねられ、73歳で生涯を閉じることになるのである。葬儀には国王からも弔電が寄せられ、その才能を愛した市民が多数参列したという。(以上は、「地球の歩き方バルセロナ」ダイヤモンド・ビック社発行、山田修平著「バルセロナの不思議に見せられて」中経出版を参照)。
 ガウディについて読んだだけでは実にならないので、改めて読んだものをまとめて見た。ガウディを理解できたと思う。行列をなして見学する人々の気持ちが分かるようである。ガウディの構想については、彼が交通事故で亡くなった1926年6月以降、建設委員会を中心に多くの研究者や建築家によって確認されながら、現在でも建築が進められている。そして、その中には彫刻を担っている外尾悦郎さんや、ガウディは図面をほとんど残していないので、建造物の寸法を実測した建築学博士の田中裕也さんがいる。日本人として誇りに思いたい。