鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

求めなさい、そうすれば与えられる(祈りの群れ)

今日は水曜日、夜の集会が開かれました。今日は初めて集会に出席された方がありました。お孫さんがドレーパー記念幼稚園を卒業され、今は小学校3年生になっていますが、そのおじいちゃんになります。川口市に住んでおられましたが、一週間前に海老名市に転居されました。お孫さんが幼稚園にいる頃、運動会を見に来られましたし、お孫さんの小学校運動会にも見に来られましたが、その時は日曜日でしたので、礼拝の時間は当教会に出席されたのでした。従って、まったく初めてではなく、既にお会いしていることになります。今週の3日の礼拝にご出席になり、お帰りの時には、水曜日も出席されると言われたのでした。月曜日の朝、幼稚園の子ども達を迎えるために門に立っていましたら、郵便局にこられたと言い、挨拶をされました。川口市にある教会の信者ですから、水曜日の祈祷会にも出席されたのです。夜の集会は、皆さんはそれぞれの状況で出席できない人が多いので、いつもは5、6名です。その意味でも新たに祈りの群れに加わってくださり、本当にうれしく思いました。
水曜日、午後7時30分から集会が開かれます。最初の30分は聖書を輪読し、その後は牧師が祈りの題を奨励します。そして出席者が順次お祈りをするのです。例えば、クリスマスが近づいているので、どうか、多くの人が教会に来て、真のクリスマスを示され、祝福の人生となるようにとお祈りをするのです。
私たち人間は祈ることが出来ることで大きな恵みがあります。しかし、お祈りしているのにかなえられないと思っている人があります。だから、別の神様にお祈りすることになります。病院の待合室にいると、見知らぬ人がそっと近づき、ささやくようにして、「うちの宗教でお祈りすればなおりますよ」というのです。誘われる人もいるでしょう。もしかしたら、その宗教でお祈りしたら治ったということもあるでしょう。私たちはあまりにも神様を自分の奴隷のようにしているのです。願った通りになることだけを考えています。だから、願ってもかなえられないと思ってしまうのです。神様はかなえてくださっているのです。
「かみさま、ケーキをあたえてください」と祈るとき、そのケーキは生クリームで、イチゴもたくさん入っていて、大きさまで頭の中で考えています。願ったとおりのケーキは、いつまでたっても目の前に現れないのです。かなえられないと思うのでしょうか。かなえてくれているのです。ケーキにこだわっていますが、願いの意味は食べることでありましょう。私に最も必要なこたえが与えられているのです。小さな子どもが、寝る前に甘いお菓子をねだります。その場合、お母さんは与えません。でも、その代わりに少しのお水を飲ませてあげるとか、添い寝して本を読んで上げるかして上げます。子どもはお菓子ではなく、お母さんの愛情を求めていたのです。
私たちの祈りを神様は聞いてくださいます。何よりも、現在の状況を示される必要があるのです。そう、このこともお祈りをしたこたえであるし、いろいろと神様のお恵みのしるしがあるのです。今まで祈りつつ歩んできたこたえに満たされていることを知るのです。「数えてみよ、主の恵み。数えてみよ、主の恵み。数えて、数えてみよ、主の恵み」という歌があります。際限なく願いを神様に押し付けていますが、まず与えられているお恵みを感謝することなのです。教会の祈祷会は教会の歩み、病む友・痛む友、また他の教会を覚えて祈ります。小さなことから大きなことまで、すべて神様に申し上げて、導きを委ねるのです。そして、そのこたえは私たちが力強く現在を歩んでいるということなのです。
今日は新しい祈りの友を迎えての祈祷会でした。祈りの和が大きくなったことを感謝しました。
聖書の言葉
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたくものは開かれる。」(マタイによる福音書7章7-8節)