鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

神様、そのとおりです(樂太朗君の回復)

神様、そのとおりです。
あなたの御導きのとおりでした。
私達の祈りがかなえられたというのではありません。
今、この現実を受け止めることができたということです。
私たちは佐竹樂太朗君が交通事故にあい、意識不明となり心から願いました、「神様、あなたの出番です」と(7月5日の日記)。
彼はしばらく意識不明のまま時間が流れました。彼を知る多くの皆さんが回復を祈りました。その祈りは、再びあの楽しい、希望のある、そしてやさしい彼の回復であったのです。そのようにお願いするのは、私たちにとって当たり前ではありませんか。なかなか回復されませんでした。このまま回復しないのではないか、そんな心配を持つ人もいたでしょう。ところが、彼は回復へと導かれました。今日、子どもの教会に両親に伴われて出席し、献金の奉仕までしたではありませんか。お姉さんの和香ちゃんの介助を受けながら、ゆっくりと、そしてあの元気であった頃は献金の当番はいつも躊躇していたのですが、今日は堂々と、確実に献金当番の役割を果たしました。そして、大人の礼拝にも出席し、礼拝後に皆さんに紹介したときにも、回復した姿を証したのでした。礼拝に出席した皆さんは涙しつつ、そしてその喜びを拍手して表しました。
神様、そのとおりです。
私たちは、樂太朗君が回復したことを喜んでいますが、あなたの御導きのすべてを受けとめなければなりません。お願いしたとおりになった、というとしたら、それは私達の自己満足です。神様を思いのままにしているということです。例えば、病気で苦しんでいる人を、私たちはいつも祈っていました。でも、神様に召されたのです。その時、私たちは、こんなに、一生懸命に神様にお願いしたのに報いられなかったと言うのでしょうか。それは、違うということを示されました。神様は、一つの出来事を通して、本人と共に本人を祈る人々を含めて、御心を示されているのです。私たちが、強引に神様を従わせようとしているとき、私たちには計り知ることのできない事実を示し、導きを与えられるのです。それにより、樂太朗君の場合だって、最初は両親をはじめ彼を知る皆さんは、おろおろと戸惑い、ただ神様に回復をお祈りしたのでした。そのような中で、両親は現実を受け止め、彼と共に生きる勇気が与えられたのです。両親は元の状態へと回復を願いながらも、現実を受け止め、彼がどのようになろうとも彼を受けとめ、彼と共に歩む決意が導かれたのです。
神様、そのとおりです。
もう、私たちは自分の願いをかなえてもらおうとする祈りではなく、神様の御心を受けとめることができるように祈ります。今痛み、今悩み、今苦しんでいるとしても、それは明日の私への備えのときだと知るでしょう。今喜んでいる、それは私の祈りがかなえられたという喜びではなく、神様の御心の中にいる自分を知った喜びなのです。
神様、そのとおりです。
でも、私たちは、やはり現実を叫ばざるを得ません。何故、こんなことになったのかと思っています。そのことで人を恨み、私の悲哀を嘆いているのです。どうしても納得できないのです。そこにも神様の御心があるというなら、どうぞ、示してください。私は人から理解されないまま生きることになるでしょう。こういう人生を何度も歩んでまいりました。
神様、そのとおりです。
私は知っています、神様の御心がいつもあったことを。神様、そのとおりです。
聖書の言葉
「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイによる福音書26章39節)