鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<454>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<454>
2017年11月23日「楽しく通話しながら」



聖書の言葉
高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ。良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな。ユダの町々に告げよ。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊を懐に抱き、その母を導いて行かれる。
旧約聖書イザヤ書40章9-11節)



今の社会、連絡にしてもすぐに連絡が出来るので、便利と言えば便利である。最近、子供たちからラインなるものを教えられ、最近はもっぱら子供たちと連絡している。バルセロナ、海老名、相模原に住む子供たちと、何かと連絡し、話し合うことができる便利さを喜んでいる。しかし、インターネットによる犯罪が後を絶たないことは、文化の発達を喜びながらも眉をひそめているのである。ツイッターとかSNSとかで連絡し、悪いことをする人たちがいること、便利さと悪者はいつも一体となっているのである。それを思うと、昔の通信が懐かしくもある。
高校生の頃、書店で、近日「学生週報」という週刊誌が発行されるという広告と共に、「声欄」の原稿募集をしていた。それで、当時は文通が盛んであり、その文通のあり方について投稿したのであった。文通を希望する場合、いきなり封書で送るのではなく、まずハガキで自己紹介をしながら、文通希望者に送るべきである、という内容で投稿する。その投稿が採用され、発行された「学生週報」の週刊誌に掲載されたのである。まさか採用されるとは思っていなかったのであるが、それからが大変になる。数日後、どっとハガキが送られてきたのである。いずれも文通希望者であり、投稿の内容に賛成であるという。驚いたのは我が家の家族である。知らない人、ほとんどが女の子であり、事情を説明したのであるが、やたらに文通することを注意するのであった。そう言いながら、送られてきたハガキの内容を見て、この子は良さそうだ、なんて評価するのであった。何通かこちらからもハガキを送ったが、長続きもせず、いつの間にか終わってしまったのである。文通が何よりの楽しみであった時代なのであった。
電話が次第に発達してきて、ある番号に電話すると、面白いことが聞けるというので、若い人たちの人気になったこともある。しかし、その電話番号にかけると高額な料金となり、家庭問題になっていた。電話局はポケットベルなるものを売り出す。電話局が幼稚園の園長は必要なものですよと売り込みに来る。早速、携帯するようになる。何か用事があればポケットベルが鳴る。鳴ることにより、家に電話をするのである。なんてことはない時でもポケットベルで呼び出されることもある。「何時に帰るのか」とか「夕ご飯、何がいい」なんての連絡である。しかしまた、ポケットベルで重要な状況を知らせられる。友人と共に渋谷にいたときである。ポケットベルが鳴ったので自宅に連絡する。すると教会に関係する青年が危篤であるというのである。すぐさまタクシーで横浜市立大学病院に駆け付けたのであった。何とか命を取り留め、その後の療養が続いたが天に召された。
そして、その後は携帯電話が普及し始める。最初の頃は電話機の子機のように大きく、携帯とは言えないものであった。次第に発達し、ポケットにも入れられる便利さになる。そして今はスマートフォンである。様々な情報が詰まっているスマホは今や多くの人が所有している。その弊害が出てきており、まだまだガラケーと言われる携帯電を使用しているので、嘆かわしく思っている。
ラインはダブレットを持つ様になったので、子供たちと連絡しあっている。それまではメールで連絡していたが、メールもいちいちアドレスを打ちこんだり、迷惑メールに困っているので、もっぱらラインで連絡するようになっている。早く伝わることは結構なことであるが、やはり考える時間を持ちつつ連絡することが大切であると思うのであるが…。



ラインを楽しんでいるタブレット端末。



スマホを嫌ってガラケーなる携帯電話を愛用している。



ラインですぐ知ることができるバルセロナの様子。



孫の義也君も成長していることを知ることができる。