鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<427>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<427>
2016年12月8日「クリスマスを待望しつつ」



聖書の言葉
エスは、ヘロデ王の時代にユダヤベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
(マタイによる福音書2章1-2節)



12月を迎えており、今は待降節を歩んでいる。キリスト教の暦を見ないでも、今はクリスマスの時期であることは社会が示してくれている。散歩して歩くうちにも、家の玄関にはクリスマスリースを飾っている家を多く見かける。夜になればイルミネーションが賑やかに輝いている家を見るのであった。ついこの間は、カボチャの飾り物を並べていた家であるが。散歩をしていると、ある幼稚園では、数人の人がクリスマス飾りをしている。庭の垣根のあたりにイルミネーションをつけているのである。この辺を夜には歩かないので、さぞきれいなのであろう。そんな光景を示されながら、大塚平安教会在任時代のことが思い出される。11月の末の日曜日がアドベント第一主日になるのであるが、その日の午後は教会の大掃除となる。そしても窓にステンドグラスをはめ込んだり、クリスマスツリーを作ったり、そして外の植え込みにはイルミネーションを飾るのである。教会の皆さんが喜びつつ準備していたことが思い出されるのであった。夜になると、玄関前の樹木に飾られたイルミネーションが、道行く人々にクリスマスのご案内をしているようである。「わあー、きれいだあ」との小さい子供の声が聞こえてくるのであった。
クリスマスにならなくても、私はいつもこのイルミネーションが体に染みついているのである。クリスマスが終わり、日曜日には皆さんと共にクリスマスの後片付けをするのであるが、その前に、なぜか一人で片付け始めたのである。イルミネーションを樹木から外すことである。その作業の最中に足を滑らせて、脛を擦りむいてしまったのである。この事を誰かに言えば、喧々囂々(けんけんごうごう)の非難を受ける。だから家族にも内緒にしていたのである。そして、毎日、脛の擦り傷を病院に行きもせず、自分で手当てしていたのである。回復まで随分と月日を要したようである。内緒にしていたので、誰にも知られなかったのであるが、数年後になるが、夏になって半ズボン姿で露見したのである。今でも痛々しく傷跡が残っているからである。傷を負ってから数年後に家族に叱られたと言う訳。なるべく半ズボンを利用しないようにしているのであるが。
そのイルミネーションを示されながら、スペイン・バルセロナのクリスマス飾りが思い出される。印象ではバルセロナの街は、日本のようにクリスマス飾りは見かけない。日本では、商店は一斉にクリスマス飾りとなっており、家庭でもイルミネーションや玄関にリースを飾っているが、バルセロナではあまり見かけなかった。商店でクリスマス飾りを見ることはあったが、あまり飾られてはいなかったということである。しかし、アドベントになるや、サグラダ・ファミリア教会の西側の公園付近にはクリスマスグッズを売る露天商が建ち並ぶ。クリスマスに関するお人形、飾りもの等、たくさん売られているのである。そして、24日にもなると一斉に店が片付けられるのである。露天商の皆さんもクリスマスをお祝いしたいからである。
バルセロナではあまりクリスマスの飾りは見なかったというが、夜になると、それはそれは驚くばかりの飾りが目に飛び込んでくる。通りにはクリスマスの電飾が、道路中に飾られている。電飾は道路をまたぎながら飾られており、その道路が終わるまで飾られている。そして、今度は次の道路となり、道路ごとに飾りが異なるのである。きれいな電飾を上に見ながら、その通りをそぞろ歩きをしたことが懐かしく思い出される。イルミネーションを見ては脛の擦り傷を示されるのであるが、電飾は我を忘れて見ていたのである。



バルセロナの市役所前広場に造られたクリスマスの箱庭。



バルセロナのクリスマスグッズを売る露天商。



道路をまたいで飾られているクリスマスの電飾。



道路が終わるまで飾られている。