鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<361>

隠退牧師の徒然記(2015年2月11日〜)<361>
2015年8月8日「二つの教会を牧しながら」


聖書の言葉
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
(マタイによる福音書7章24-25節)


陸前古川教会は6年半の在任であったが、最後の一年間はもう一つの教会の牧師にもなる。そのことを兼任牧師と称している。古川市から登米の町まで車で1時間を要するが、その町にある登米(とめ)教会の牧師が不在になったので、陸前古川教会の牧師でありながら登米教会の牧師に就任するのである。陸前古川教会は1978年9月24日に臨時総会を開催する。一つは教会墓地建設の件であり、もう一つは鈴木牧師の登米教会兼任牧師の件である。二つの議案は可決される。鈴木牧師は10月から登米教会の牧師として古川から通うことになる。礼拝は陸前古川教会が日曜日の午前に行われ、登米教会は日曜日の午後3時30分から行われることになる。従って、午後2時には古川から登米に向かうのである。週日は三日間、教会や幼稚園の職務を行うことになる。登米教会には付属の幼稚園があり、園長にも就任したのである。
登米の町はすぐ隣が岩手県になる。雄大北上川が流れている。もう河口にも近いので、川幅も広く、ゆったりと流れているのである。人口8千人の町である。教会は登米教会であるが、町は「とよま町」である。登米郡とよま町にある教会であり、登米郡の教会としているのである。教会は1892年に設立されているので、歴史的には長い。しかし、人口が少ないので、教会員も少ないのである。教会員は10人程度であり、礼拝出席も同じような人数である。今まで牧師と共に教会を支えて来られたのは、付属の幼稚園があるからである。とよま町には他に幼稚園はないが、保育園がある。幼稚園をいつまでも存続させるために、幼稚園を学校法人にする必要がある。宗教法人の幼稚園に対して、町としては助成ができないのである。そこで教会と町が幼稚園の学校法人設立準備委員会を設立させたのである。もう数年に渡って準備委員会の会合が開かれていた。なかなか前進できない状態が続いていたのである。園長に就任して、数回に渡り委員会に出席したが、これではいつになっても学校法人への移行ができないと思うようになる。町は町で主張があるし、教会も立場がある。それで、学校法人設立準備委員会の解散を提案したのであった。それには10人の教会の皆さんの決断が必要である。主体は教会であること、学校法人になっても、教会が主体にならなければならないことを皆さんに理解していただいたのである。解散を提案したとき、わずか10人の教会員で何ができるのか、との声が聞かれる。しかし、教会は決断したのである。教会もまた、たった10人では何もできないと思っていたのである。
まず学校法人としての認可基準に合わせることである。園舎、運動場等の整備が必要である。建築に関しては、陸前古川教会の役員さんが製材屋さんであり、建築屋さんでもあった。早速、建築をお願いする。これらを進めるにしても、宮城県庁に出かけては相談する。それにより、難問を一つ一つクリアし、どうにか基準に合わせることができたのである。問題は資金である。10人の教会員、それもほとんどが高齢になりつつある皆さんであるが、祈りつつ取り組むことになる。全国募金まではしなかったが、東北教区内の教会、私達の知人、教会の皆さんの知人等、募金のお願いをする。この様な取り組みを、幼稚園のお母さんたちが黙って見ていたのではない。歴代母の会の皆さんが立ち上がり、町中の皆さんへの募金活動を始めるのである。この様な状況を、町側も見過ごせなくなる。宗教法人立幼稚園であるが、学校法人の準備なのであり、助成金を予算化してくれたのである。教会員の皆さんは、以前から「とよま姉様人形」を作っていたが、本格的に作るようになり、それを皆さんに買っていただくようになるのである。このようにして建築資金は借入金を含めるがクリアすることになる。
建築が完成し、落成式を行う。町長、教育長等も招いて落成をお祝いしたのである。その時、ある方が、「鈴木園長は、今まで我々は直球を投げようとして進めることができなかったが、カーブを投げた。直球でもカーブでもストライクになればよいのである。みごとなカーブであった」と言われたことが忘れられない。学校法人設立準備委員会を解散させた思いは町側の皆さんに残っている。しかし、幼稚園が早く学校法人になることなのである。学校法人になる設置基準を満たし、県に提出する書類もすべて整った。後は提出するだけである。1979年5月、全国教会幼稚園の園長会が箱根で開催され、出席していた。その時、神奈川教区内で牧師をしている知人から連絡がある。大塚平安教会に就任するお話しである。この件は瞬く間に決まり、その年の9月には就任することになる。陸前古川教会にしても、登米教会にしても、あまりにも急なことなので、驚かれるのであった。折角、学校法人になり、ゆとりのある幼稚園になるのだから、今度はのんびりと牧師、園長をしてください、と登米教会の皆さんに言われる。
登米教会の後任牧師は知人を紹介し、学校法人への書類提出は彼に委ねることになる。陸前古川教会はしばらく無牧となるが、仙台には教務教師、すなわち学校の先生をしている牧師が大勢いるので、日曜日の礼拝は困らないのである。登米教会は学校法人の書類申請が残っており、陸前古川教会は墓地が完成し、献墓式を残しているが、いずれも忘れ物をしているような状況で大塚平安教会への転任となったのである。大塚平安教会の場合も、新会堂建築は長年準備してきている。しかし、完成は後任牧師と皆さんになる。なんか、美味しいところはいただけない、そんな思いでもある…。



当時の教会の皆さん。



幼稚園の園長として、初めて子供たちに接する。



教会の婦人の皆さんが作った「とよま姉様人形」。
千代紙で作られている。



時には家族でハイキング。楽しいお弁当。