鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<262>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<262>
2014年6月16日「牧者が変わり…」


聖書の言葉
そこで、わたしの子よ、あなたはキリスト・イエスにおける恵みによって強くなりなさい。そして、多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちに委ねなさい。キリスト・イエスの立派な兵士として、わたしと共に苦しみをしのびなさい。
(テモテへの手紙<二>2章1-3節)



私の出身教会である清水ヶ丘教会の新牧師就任式が昨日の15日に行われたので、連れ合いのスミさんと共に出席する。この3月まで25年間務められた島田勝彦牧師が退任され、4月からは中島聡牧師が赴任する。出身教会であり、何事もいつも心に示されていた。今度の牧師は三代目であり、前任の島田勝彦牧師は二代目で、初代は倉持芳雄牧師である。清水ヶ丘教会は1947年9月28日が創立日であり、まだ66年の歴史である。しかし、歴史は浅いものの日本基督教団の中でも大教会の一つに数えられているのである。それほど大きな教会に導いたのは初代の倉持芳雄牧師なのである。私はその倉持芳雄牧師に導かれ、育てられたのである。
1947年9月28日が創立記念日であるが、その日に第一回の礼拝がささげられたのであった。それは横浜市中区にあった生糸検査所でささげられたのであり、当時は横浜ミッション教会と称した。その後、1950年10月1日に清水ヶ丘教会と名称を変更し、日本基督教団に加入するのである。そして、1952年4月20日に現在の土地に会堂を建設する。このような歴史の中に私の存在があるのである。生糸検査所の横浜ミッション教会時代、小学生の何年生であったかは定かではないが、長姉の美喜子に連れられて、何回か礼拝に出席したことがある。その頃は関東学院六浦の中にある教会の日曜学校に通っていた。3年生の頃である。私と日曜学校の関わりについては、しばしば紹介しているので割愛する。中学生になってから清水ヶ丘教会に出席するようになるのであるが、この土地に新しく建てたばかりの教会であった。会堂が与えられ、その後、教会の裏山にあたる部分を整地して教育館を建設することになり、教会の皆さんがいつも整地奉仕をしていた。中学生の頃であったが、暇さえあれば教会の整地奉仕に加わっていたのである。
中学生、高校生と成長していく中で、私にとっては清水ヶ丘教会の中で成長したと言っても過言ではない。土曜日の午後には教会に集まり、日曜日の集会の準備等を行っていたのである。「ぶどうの会」の中心になっていたのである。高校2年生の時、KKS全国大会が山中湖で開催され、神奈川教区を代表して参加している。KKSとは全国教会高校青年会の略である。この大会に参加することによりキリスト教の視野が開かれ、牧師への道が見えてくるのである。大会に参加した翌年の10月6日に倉持芳雄牧師より洗礼を受けている。高校3年生であった。その頃から牧師の道が導かれていたが、すぐには神学校に入ることが出来ず、23歳になって道が開かれたのであった。神学校では6年間在籍し、卒業するや東京の青山教会に赴任する。4年間の伝道師、副牧師の時代を過ごし、その後は陸前古川教会に赴任し、6年半務める。そして1979年9月から大塚平安教会の牧師となるのである。
大塚平安教会に就任した頃、倉持芳雄牧師はもちろんお元気であり、1984年5月の特別伝道集会の講師として倉持牧師をお招きしている。その後、1986年からは闘病生活となり、1990年7月23日に召天される。倉持芳雄牧師に導いていただいたことについては、いろいろなことを記さなければならないが割愛しておく。このような大牧者に導かれた人が、今でも清水ヶ丘教会を支えているのである。だから、倉持牧師がおられなくても、昔からの人々とのお交わりが導かれている。
昨日の新牧師就任式の司式をしたのは、やはり清水ヶ丘教会出身の岩崎隆牧師であった。彼とは高校生の頃からの友達でもある。彼は現役として、まだ務めているのである。就任式が終わり、祝会で彼と話したことは、最近は清水ヶ丘教会に来ても、知らない人が多くなってしまったということである。昔からの人は天に迎えられているからである。それもそうである、我々も75歳になっているのであるから。二代目の島田勝彦牧師は倉持芳雄牧師の牧会をそのまま踏襲しているようであったと思う。私達にとっては何よりの願いである。三代目もそうあって欲しいのであるが。とにかく清水ヶ丘教会の新しい歩みをお祈りしている。



清水ヶ丘教会のたたずまい。