鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<202>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<202>
2013年11月8日「再び起点に立たされて」


聖書の言葉
数日の後、パウロバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのようにしているかを見てこようではないか」。
使徒言行録15章36節)



 スペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子が一時帰国した。当初は青山教会でピアノのコンサートを開くつもりで帰国することになったが、その後、いくつかのコンサートが加わることになる。青山教会でコンサートを開く方向を示されることになったのは、私が40年ぶりに青山教会の講壇に招かれたからである。同教会は1904年11月6日が創立日であり、毎年11月の第一主日を教会創立記念日礼拝としている。今年は11月3日がその日である。その大切な主日礼拝にお招き下さったのである。そして、礼拝後は講演会が予定されていた。かねがね羊子は青山教会でコンサートを開く願いを持っていたこともあり、講演に代えてピアノのコンサートを申し出たのであった。しかし、教会としては年度計画でもあり、やはり講演会を開催しなければならない。それで講演会の前に15分程度のピアノ演奏ということになったのである。青山教会でコンサートを開くつもりで一時帰国の準備を始めたので、せっかく帰国するので他の教会でもコンサートを開催することになる。11月9日午後2時からは横須賀上町教会で、10日午後2時からは三崎教会で開催する。さらに示されたことは、スリランカ人のシルバさん家族支援チャリティーコンサートを開催することであった。難民として日本に渡っているが、滞在ビザがとれないままであり、私が仮放免の保証人となることで滞在している。難民申請が却下され、今は裁判に持ち込んでいる。そのシルバさん家族を支援する会があり、支援するものの資金が不足する状況になっている。それで11月4日にチャリティーコンサートを開催することにしたのである。それは別に記すことにしよう。
 私は1969年3月に日本聖書神学校を卒業し、4月から青山教会の伝道師として就任する。その年のクリスマス礼拝の朝に羊子が生まれたのである。教会で礼拝前の準備をしていたとき、病院から連絡があり、生まれたことを知るのである。しかし、だからと言って病院に行くわけにはいかず、皆さんと共にクリスマス礼拝をささげ、続いて祝会に臨み、そして片付けをして病院に行くのは夕刻であった。その後、羊子は青山教会の礼拝に親に連れられて出席していたのである。当時の主任担任牧師の宮内彰先生から幼児洗礼を授けられる。月に一度は伝道師であったが説教を担当させていただいていた。私の説教中に羊子が私の靴を持ってくるのである。靴のまま入る礼拝堂であるが、私は履物を変えていたのである。靴箱から私の靴を持ってくるので、前に座っていた教会員が、「パパの靴はここにおいておきましょうね」と言いつつ、講壇の端においてくれるのである。その後、次女の星子が生まれる。星子を宮内先生が紹介をしながら、次のお子さんは「博士」でしよう、と言われたことが忘れられない。二人ともクリスマスに生まれているからである。従って、星子も青山教会が最初の教会であり、当日は共に出席したのであった。
 青山教会では伝道師、副牧師として4年間、職務を担うが、その後は宮城県の陸前古川教会に赴任する。わずか4年間であったが、教会学校や青年会の皆さんとの交わりが深められる。その当時、教会学校に出席していた生徒が、今では役員になっていたりしている。青年会としてお交わりいただいた皆さんも元気に信仰生活をされておられ、懐かしいと共に信仰を持って歩んでいる皆さんを示されるのであった。教会の近くにアルテリーベというレストランがあり、青年会の皆さんと共に食事をしたものである。また南青山の交差点近くに「バッタ」という喫茶店があり、そこに出掛けてはいろいろと語らいつつ過ごしたものである。もちろん今はそれらの店はない。教会も以前とは変わらないが、リフォームしているので、別の教会にいる思いであった。礼拝堂が二階にあるので、今ではエレベーターが設置されており、高齢者にはありがたいことである。私が在任していた頃の働き人の皆さんもお元気に出席されていた。それと共に今は天にある皆さんを示されるのである。当日の説教は「永遠の命への道すがら」と題してみ言葉を取り次いだのであるが、今を生きる者として、その道すがらをイエス様によって導かれていることを示されたのであった。




伝道者として最初の教会に招かれて説教を担当する。