鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <83>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<83>
2012年4月11日 「主の食卓に招かれる」 


聖書の言葉
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
(マタイによる福音書26章26-28節)


 
 六浦谷間の集会の礼拝において、初めて聖餐式が執行された。2012年4月8日のイースター礼拝においてである。かねてより聖餐式の執行を願っていたが、なかなか果たせないでいた。羊子がスペインから帰国中であり、星子も百合子も出席することになっていたイースター礼拝であり、聖餐式を行うことにしたのである。と言っても用具がない。しかし、聖餐式用具の決まりはない。教会での聖餐式の用具は、パン皿やコップ等、一段40人分、二段あれば80人の配餐ができる。教会で使用するようなコップでなくても、主の御体のパンと主の血潮の器はそれなりに用意すれば良いのである。従って、六浦谷間の集会のパン皿は小皿であり、血潮をいただくコップは、教会で使うような小さなコップではなく、装飾が施してあるきれいなグラスということにした。器はどのようなものであれ、主の食卓にあずかることなのである。
 以前、礼拝研究会に参加し、聖餐式を執行した。その時、主の御体はコッペパンをちぎり隣りの人に与える。隣の人も、そのコッペパンをちぎって次の人に与えるのである。血潮については大きな湯呑に満たし、一口いただいては次の人に与えるのである。昔はそのように聖餐式を行っていた教会があったことを聞いている。しかし、戦後は肺病等が流行っており、それらの人と共に聖餐にあずかることを嫌う人がいる。それで、小さなコップに分けて配餐することが普及するようになるのである。
 聖餐式にまつわるいくつかのことが思い出される。大塚平安教会時代、聖餐式の片づけは役員さんがしていた。問題は残ったパンとぶどう酒をどうするかということである。それで、役員さんは残ったぶどう酒を棄てることもできないので、自分でいくつかのコップのぶどう酒を飲みほしてしまったのである。そしたら具合が悪くなり、しばらくベンチで休んでいたのであった。その当時、地区の牧師会でも聖餐式の取組みについて話し合っていた。ある牧師は、会衆に配餐し、残ったパンとぶどう酒については、牧師が後で処理をすると言う。礼拝が終わってから牧師がいただくということである。しかし、会衆に配餐し、残れば、その場で牧師がいただいてしまうという牧師もいた。その方法は私も頷けるので、大塚平安教会でも実施したのである。だいたいの予想人数分くらいが用意されている。だからパンにしてもぶどう酒にしても、それほど残らないので、配餐が終われば、牧師がいただいても不自然ではない。問題は予想を下回るときである。その日は何故か教会員の出席が少ない。少なければ多数残ってしまう。小さなコップを一つ一ついただくわけにもいかないので、大きめのカップを用意しておき、小さいコップに入っているぶどう酒を次々にカップに入れ、一気に飲み干すのである。その頃、大塚平安教会はぶどう酒を用いており、残りが多ければカップにもなみなみと入ることになる。それを飲み干すのであるから、日ごろの訓練が必要というわけ。数年後、小さなコップのぶどう酒で、具合が悪くなってしまった人がおられ、それからは「ぶどう液」に変えたのである。また、残ったパンとぶどう酒は、後で牧師がいただくことにして、その場でいただくことはやめたのである。年齢も増し、無理ができなくなったこともある。
 横浜本牧教会代務者時代のある日の聖餐式が忘れられない。こちらの教会は全員に配餐が終わってから一緒にいただくのである。二人の役員さんがパンの配餐を行い、戻って来た時、パン皿にはパンが一つしか残っていなかった。司式をしている私は、奏楽者には配餐してあることを確認し、まだパンを手にしてないのは、その役員さん二人と司式者である。パンは一つしかない。その時、司式者は一つの小さなパンを三つに分けた。さらに小さくなったパンを三人が手にしたのである。そして会衆に、「これは、わたしたちのために裂かれた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもつて心の中にキリストを味わうべきであります」と宣言し、共にいただいたのである。次にぶどう酒の配餐が始まったが、もし一つしか残らないのであれば、順次回し飲みすることも考えていた。しかし、ぶどう酒に関しては、配餐を終えた役員さんの手には、一つではなく、少なくとも三つ以上は残っていたことを知り、ホッとしたのであった。礼拝が終わり、特に若い皆さんが、「一つしかパンが残っていなかったので、ドキドキしていました。牧師先生、すごい」と言うのであった。




六浦谷間の集会、礼拝における聖餐式




 六浦谷間の集会の礼拝における聖餐式で、ぶどう酒をいただくコップが、それはそれはきれいなグラスなので、中のぶどう酒の意味が薄れてしまうのではないかと思ってしまう。いや、そんなことはない。聖餐式を執行しているのである。美しいグラスに注がれているぶどう酒は、確実に主の血潮なのである。「これは、わたしたちのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを憶え、感謝をもってこれを受け、信仰をもって心のうちにキリストを味わうべきであります」、「アーメン」と唱和しつつ共にいただいたのである。