鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <78>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<78>
2012年3月30日 「喜びの住み家を思い出しつつ」
 

聖書の言葉
あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというなら、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。
ヨシュア記24章14-15節)


 
 朝、目覚めてもすぐには起きないで、蒲団の中でラジオを聞くことを常とするようになっているが、3月も終わりになっている今日この頃は、ラジオ朝一番では「別れと出発」に関する「お便り」が多く紹介されるようになっている。就職や大学生活のため、家から出て行く我が子を見つめてのお便りが紹介されていた。読売新聞のコラム欄でも「さようなら」をテーマに書いている。今まで共に歩んできた愛する者が、3月が終わると共に離れて行く。それは寂しいことであるが、新しい出発へのエールでもある。迎える4月からの歩みが祝福となるよう祈っているのである。このことに関しては、このブログでも記しているが、ドレーパー記念幼稚園同窓会に出席して、小学校を卒業する子供達が中学へ、中学校を卒業する子供達が高校または社会人になっていくことを、背後にあって心から祈ったのであった。へシャン君のお手紙も紹介している。祝福の人生を歩むよう祈っている。
 ところで、3月の終わりとなると忘れることができないのは、私達の引っ越しである。大塚平安教会を2010年3月を持って退任し、引越しをすることになる。30年6ヶ月間、住み慣れた大塚平安教会牧師館を後にするのは、やはり色々な思い出があるだけに、離れがたかった。相変わらず引越しを思い出すのは、実は連れ合いのスミさんが引越し以来、腰を痛めてリハビリに通っているからである。片づけや整理をするなかで、スミさんは教会と幼稚園の間においてある物を、脚立に上がって行っていた。足を滑らして落下してしまう。下はコンクリートの階段であり、腰を打ってしまったのである。すぐに病院で診てもらったが、以来、腰の痛みを持ちながら生活しているのである。もはや2年を経ているが、痛みは治まることなく、リハビリを続けているのである。その痛い腰をかばいながら、昨年は4月5月に娘の羊子がいるスペイン・バルセロナに行ってきたのである。羊子は車椅子を用意していたので、何かと使用することになる。腰が痛くて歩けないというのではなく、長く立ち仕事をしていると痛みが増すのである。だから車椅子を併用しながら過ごしたのである。六浦の生活では車椅子は用いていないが、やはり長時間の立ち仕事は避けるようにしている。今は夫婦二人だけの生活で、教会や幼稚園の職務もなく、のんびりと養生しながら歩んでいるのである。しかし、腰の痛みを示される毎に2年前の引越しを思い出してしまうのである。



大塚平安教会牧師館台所。もはや片づけた後。



居室。遠くに丹沢山塊を見ることができる。
マンションができる前は、眺望が良かった。



牧師館の玄関。



 引越しのことについては昨年3月29日のブログに記しているので、ここでは多くを記さない。30年6ヶ月の大塚平安教会の生活は、宝の山を抱え込んでいたが、引越しとなると不用品の山ともなっていた。懐かしいダイニングの椅子は、もはや壊れていて、使わないままにテーブルの前においていたが、やはり、これは処分しなければならなかった。この椅子とテーブルは、私達が結婚したとき、40年前に求めたものである。結婚式のお礼の挨拶状には、この椅子の絵を描き、「この椅子がいつも空いているので、お出かけください」と記したものである。しかし、テーブルもかなり破損しているのであるが、どうしても捨てがたく、引越しの荷物に入れたのであるが、物置にしまったままである。何とか使う機会を持ちたいのであるが。
 牧師館にあるすべての物を片づけ、整理した時、がらんとした部屋を見回しながら、私たちを支えてくれたこの家に心から感謝したのであった。あちらこちらネズミの出現を防止するために、ブリキでふさいでいる場所も懐かしく見つめる。我が家の3人の子供たちもこの家で成長したので、思いを深めながら片づけ、整理を共にしたのである。やがて、この家も教会建築と共になくなるのであるが、乙幡和雄牧師家族と私達の家族に対して、喜びの住み家を提供してくれたのである。



大塚平安教会牧師館