鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<473>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<473>
2018年12月31日「人々を示されながら」



聖書の言葉
「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。」
新約聖書ルカによる福音書10章41-42節)



2018年の年も終わりになるとき、思うことは、この年も元気に過すことができたということである。それは神様のお導きであると示されている。もはや79歳にもなる時、今までは横浜本牧教会付属早苗幼稚園の園長として務めていたが、4月からは伊勢原教会に関係する認定こども園伊勢原幼稚園の園長として務める様になる。「79歳ですよ」と念を押したのであるが、お迎えくださったのであった。自宅から幼稚園まで2時間を要するが、何とか職務を果たすことができた。前任の早苗幼稚園は車で40分程度であったので、いつもは車の行き帰りであった。ところが今は電車を利用するようになる。何しろ朝は6時頃には家を出ることになり、7時頃の横浜駅は大勢の人々であふれている。こんなに大勢の人々が、毎日通勤しているのだから、何か、初めて知った様だった。今までは牧師館住まいで、通勤ということはなかったのである。世の中の皆さんは、本当に大変な思いをしながらお勤めになっていること、今更ながら知るとは、恥ずかしい限りである。
人が混みあうこと、これは朝夕の時ばかりではなく、午後2時、3時頃の時間帯でも横浜駅の構内は、大勢の人なのである。買い物、人と会うこと、いろいろな用事なのであろうが、人は混みあう状況を厭わないようである。むしろ、何も用がないのに、人出の多い場所が好まれるのであろう。先日のハロウィンでも渋駅付近の大変な混雑ぶりには驚く他はない。警察はクリスマスイブの警戒もしていたが、何とか大騒ぎにはならなかったようである。人は、やはり人の集まるところを好むのであろう。いよいよお正月であるが、混みあうことが分っていながら初詣に出かけるのである。今年のお正月は羊子の家族が一時帰国していた。彼のイグナシオさんが日本の文化を知りたいというので、1月4日であったが、鎌倉の国宝館に出かけたのである。比較的、朝のうちに出かけたので、駐車場が空いていた。少し遅くなれば、どこの駐車場も満車になるのである。それよりも4日でも鎌倉八幡宮には初詣で混みあっていた。八幡宮は階段の上にあり、下では入場制限があり、長蛇の列なのである。何時間も待ってようやくお参りをすることになる。しかし、この多くの人の中にいることの喜びを持っている人もいるのである。
人の多さ、混みあうほど、危険が伴うほどの人出は、何も日本ばかりではない。どこの国でも、何かと人出を多いことを報道している。フランスでもドイツでも、また他の国々でも、何かと人出の多いことで報道されている。目的があるには違いないが。2014年はバルセロナに滞在しており、年末年始の経験をする。12月31日は年の終わりであり、人々はカウントダウンをするために広場に集まるのである。なんでこんなに集まるのかと思う。みんなで一緒に年末年始を迎えたいのである。カウントダウンには12回の鐘が鳴り、それに合わせてカウントをし、同時に12粒のぶどうを食べるのである。それが終わると、「新年おめでとう」と喜びあうのである。この人出は1月6日の顕現祭も同じある。私たちは、そのような人出の中に行くと危険でもあるので、もっぱらテレビで知るのであつた。カウントダウンについては家でするか、知人が集まって行うのである。羊子と親しくしているホアキンさんと言う老人が知人と共に私達をお招きくださった。夕食は美味しい海老やパエリアをいただき、カウントダウンはぶどうを口に放り込みながら迎えたのである。ぶどうはあらかじめ皮をむいておくのである。この時の人出の多さに驚いたのであるが、どこの国でも、人が集まるとこには、またまた人が集まることを示されるのである。
2018年は人の多さを改めて知る年になったと思っている。人が多い世の中で、自分としての歩みをしたいものである。自分としての歩みとは、牧師を隠退しても、六浦谷間の集会として、礼拝説教を担当していることである。御言葉に向かう姿勢を持ち続けるということである。




2018年1月4日に鎌倉の国宝館へ。初詣で大勢の人が。



12月31日のカウントダウンでは、12の鐘の音と共に12粒のぶどうを食べる。



顕現祭には広場に大勢の人々が。



三人の王様、レイジェスが到来する。

隠退牧師の徒然記<472>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<472>
2018年12月27日「希望を与えられつつ」



聖書の言葉
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
新約聖書・コリントの信徒への手紙<一>13章13節)



平成天皇が2019年には退位することで、いつも言われることは「○○は平成最後である」ということである。元号が変わることで最後となるのであるが、日々の歩みは変わることもない。私たちはいつも西暦表記をしているので、元号が変わることには気にしていないということである。気にしているとすれば、私は79歳を迎えており、来年は80歳になる。その関連で、何かと「70代最後」の思いが募っているのである。その70代最後のクリスマスは、六浦谷間の集会としてささげたのであるが、知人の皆さんも出席され、我が家の家族を含めて13名が集い、クリスマス礼拝そして祝会を開いたのであった。
この六浦谷間の集会は2010年11月から始められたのであるが、その年のクリスマス礼拝は横須賀上町教会に招かれ、礼拝説教を担当させていただいたのである。横須賀上町教会は2010年10月からは専任牧師が不在となり、代務者を置いての歩みとなっていた。そのため月に一度は礼拝説教を担当するようになったのである。2011年のクリスマス礼拝が六浦谷間の集会として最初のクリスマス礼拝となる。12月25日であった。そのときは追浜にお住いの大塚平安教会員である小澤八重子さんが出席されている。小澤さんは六浦谷間の集会の第二回目から出席するようになり、それからは時々であるが出席されるようになっておられた。その日のクリスマスにはドレーパー記念幼稚園時代の二人の教職員が出席され、我が家を含めて8名の皆さんでクリスマス礼拝をささげたのである。2012年は12月23日がクリスマス礼拝であり、9名の皆さんが出席されている。六浦谷間の集会として、出席記名簿を用意したのは2012年4月1日の礼拝からであり、それまでは記名簿を用意していなかったのである。記名簿を備えることにより、集会の出席者が記録されるようになり、歴史が刻まれるようになったのである。
2013年は12月22日がクリスマス礼拝であった。12名の皆さんが出席されている。ドレーパー記念幼稚園時代の園児と保護者の方も出席されたのであった。2014年のクリスマスは12月21日であるが、このときはスペイン・バルセロナに滞在中であった。滞在中にフィレンツェを訪ねており、21日はフィレンツェカトリック教会のミサに出席したのであった。2015年は12月20日にクリスマス礼拝をささげ、11名の皆さんと共にお祝いしたのであった。2014年はお休みであったこともあり、皆さんは喜んで出席されたのである。2016年12月25日のクリスマス礼拝も11名の皆さんが出席されている。2017年は12月24日にクリスマス礼拝をささげた。この時はスペイン在住の羊子家族、イグナシオさんや義也君を交えて礼拝をささげる。12名の出席である。そして2018年は12月23日にクリスマス礼拝をささげたが、13名の皆さんでお祝いする。今回はスリランカ人のシルバさん家族が出席している。お連れ合いのチャマニさん、ヘシャン君、メヌシャさんの家族である。賑やかな、楽しいクリスマス祝会を開いたのであった。そして、このクリスマスが70代最後のクリスマス礼拝であったのである。
80代になるのは5月10日であり、70代はまだ続く。今は伊勢原幼稚園の園長を担っているが、自宅から幼稚園まで2時間もかかるが、今では楽しみつつ通っている。六浦谷間の集会も回数が多くなっている。というのは他の教会に招かれることが少なくなっているからであり、それだけ六浦谷間の集会が多くなるということである。少なくとも2018年3月までは、月に一度であるが横浜本牧教会の礼拝説教を担当していた。4月からはお勤めがなくなったのであるが、三崎教会は隔月にお招きをいただいている。次第に他の教会での礼拝説教が減少している。しかし、来年3月には宮城県の陸前古川教会の礼拝説教を担当することになっている。陸前古川教会は1973年4月から1979年8月まで主任牧師として仕えた教会であり、我が家の子供たちは幼少年時代に成長している。そのため、一度、陸前古川教会を家族で訪ねたいとの希望があった。その希望がかなえられることになったのである。礼拝後は羊子のピアノコンサートが開かれることになっている。
その80代になる前にも、我ら夫婦が金婚式を迎えることになっている。喜びと希望を持ちつつ80代の歩みを始めようと思っている。




六浦谷間の集会クリスマス。
イエス・キリストの光が到来したことでローソクを点灯。



木星子さんが礼拝の奏楽を担当する。



祝会は美味しいご馳走が並べられて…。



バルセロナからクリスマスのお祝いメッセージ。



1歳10ヶ月になる義也君。

隠退牧師の徒然記<471>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<471>
2018年12月11日「またクリスマスを祝いつつ」



聖書の言葉
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共におられる」という意味である。
新約聖書・マタイによる福音書1章23節)



今年もクリスマスをお祝いできることを喜んでいる。今年は伊勢原幼稚園でクリスマスをお祝いできることを感謝している。2010年3月に30年間務めた大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園を退任したが、それはまた皆さんとのクリスマスのお祝いができなくなったということである。在任中はクリスマスになると、いったい、何回クリスマスの集いをしたのであろうか。教会は二つの施設と関わっているので、それぞれの嘱託牧師でもある。クリスマスの集いも当然行われていた。まず二回のクリスマスのお祝いである。そして教会では婦人会と家庭集会の合同クリスマス、教会学校のクリスマス、教会のクリスマス、聖夜礼拝としてのクリスマスが行われていた。幼稚園のクリスマス、お母さんたちのクリスマスも行われていた。そして刑務所や少年院にも関わっていたので、そこでもささやかなクリスマスのお祝いをしていた。さらにキリスト者シニアホームである「神の庭・サンフォーレ」のクリスマス、関係する「サンフォーレ戸塚」のクリスマス集会もある。これだけのクリスマスのお祝いをするので、お恵みがたくさんということになる。
ところが教会、幼稚園を退任し、隠退牧師になってからは、クリスマスは六浦谷間の集会のクリスマスだけになった。2010年11月から六浦谷間に集会として自宅にて礼拝をささげるようになり、クリスマスもお祝いするようになった。この日には家族の子どもたちや知人の皆さんが出席されるので、12、3名の皆さんでクリスマスをお祝いするようになっている。ところが横浜本牧教会付属早苗幼稚園の園長を担うことになったとき、幼稚園の子供たちのクリスマス、お母さんたちのクリスマスをお祝いすることになる。そして、今年は伊勢原幼稚園の園長を担っているので、幼稚園のクリスマスをお祝いするのである。既にお母さんたちとクリスマス礼拝を行っている。幼稚園の子供たちとは12月15日にクリスマスのお祝いをすることの喜びを与えられている。
昨年のクリスマスはスペインにいる娘の羊子家族が一時帰国したので、知人も出席され、六浦谷間の集会として、皆さんと共にクリスマスをお祝いしたのであった。今年は23日がクリスマス礼拝であるが、知人が出席されることになっている。クリスマス集会が少なくなったとしても、皆さんと共にクリスマスをお祝いできることを感謝している。
以前にもスペイン・バルセロナのクリスマスを紹介したが、少し思いだしておこう。バルセロナは日本のように賑やかな、そして華やかな飾りはしないようである。しかし、市役所前には大きなクリスマスツリーが飾られているが、日本のようにイルミネーションの賑やかな飾りではない。市役所前の広場では、広場の半分を箱庭が締めていた。その箱庭にはクリスマス物語が置かれているのである。三人の賢者(聖書では博士、学者)が船でバルセロナにやってきている。箱庭の中央には馬小屋があり、ヨセフさんとマリアさんが置かれている。しかし、飼葉桶にはイエス様がいないのである。クリスマス前なのでまだイエス様は与えられていないからである。イタリヤのフィレンツェを訪れたときにも、教会前の広場には等身大のヨセフさんとマリアさんが置かれていた。そして馬小屋には飼い葉おけが置かれているが、イエス様はまだいないのである。クリスマス前だからである。そして12月25日のクリスマスのミサには多くの人たちが教会に集い、イエス様がお生まれになったことを喜びあうのである。ミサが終わると、神父さんが抱くイエス様のお人形にキスをして、喜びつつ帰っていくのである。クリスマスにはサンタクロースも出てこない。実はバルセロナでは1月6日の「顕現祭」の方が賑やかなのである。三人の博士・学者さんがイエス様にお会いした日とされており、むしろこの日の方が賑やかにお祝いするのである。三人の賢者が人々にお菓子をふるまい、家庭ではプレゼントが与えられるのである。広場には賢者を中心に御供のものがおり、お祝いするために大勢の人々が集まる。むしろ危険でもあるので、私たちは見物にはいかなかったのである。テレビで賑やかに顕現祭を見たのであった。
クリスマスは皆さんと共にお祝いすることの喜びがある。しかし、イエス様がお生まれになったとき、駆け付けたのは東の国の博士さん達であり、別の証言は野原で羊を飼う羊飼いさん達だけであった。静かな、しかし喜びあふれるクリスマスであったと聖書は記している。そのメッセージを深く受け止めながら、今年もクリスマスを迎えたい。




鈴木家の玄関に小さなリースを掲げている。
今年はまだ飾ってないなあ。



バルセロナの市役所前に造られているクリスマスの箱庭。




バルセロナ市役所前に飾られたツリー。
イルミネーションはつけてない。



道路には電飾でクリスマスをお祝いしている。

隠退牧師の徒然記<470>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<470>
2018年11月12日「まあ、楽しく歩んでいると…」



聖書の言葉
高い山に登れ。良い知らせをシオンに伝える者よ、力を振るって声を上げよ。
旧約聖書イザヤ書40章9節)


ブログをお休みしているうちにも二ヶ月を経てしまった。取り立てて書くこともないからである。いろいろな出来事を経験しつつ歩んでいるとしても、それらを書くと、自ずと過去の出来事に触れることになり、そういう手法は今までも繰り返してきたのである。だからなかなか筆を執る気にならないのである。とは言え、今までこのブログを閲覧してくださっている皆さんには申し訳ないと思い、近況報告をすることにした。
この4月から伊勢原市にある教会の幼稚園、伊勢原幼稚園の園長を務めるようになった。家から2時間を要する。これが毎日であると、身に応えるが、月水金の三日間なので、何とか休み休み行き来している。当初は六浦駅から急行に乗り、次の金沢八景駅快速特急電車に乗っていた。そこから横浜駅まで、座ることもできない。しかも結構込み合っているので、横浜駅で下車するときには大変でもある。しかし、最近は六浦駅から急行に乗り、そのまま乗り換えないで横浜駅に行くようになった。六浦駅で乗ると座ることもでき、居眠りすらできるのである。横浜駅で目が覚めて慌てて下車したこともある。横浜駅では京急線から相鉄線に乗り換えるのであるが、両方の路線は東側と西側にあり、結構歩くことになる。それでも相鉄線は始発なので、この電車でも座ることができる。海老名に着くと、今度は小田急線に乗るのであるが、結構な込み具合である。それでも本厚木駅愛甲石田駅では、どっと下車するので、やれやれと思って乗っているうちにも、次の伊勢原駅で下車するのである。
幼稚園では子供たちとの触れ合いが、楽しく、また希望が持てるようである。「園長先生、大好き」なんて言われると、なんか存在感が増してくるのである。先日、朝のお迎えで幼稚園の門に立っていると、朝の挨拶をしたお友達が、園舎を前にして、引き返してきた。「ギューするの、忘れちゃった」と言って、ハグをしてくれるのである。このお友達は、園長にはいつもギューしてくれるので、うれしく思っていた。最近は、その他のお友達もギューをしてくれるようになってきている。こんな喜びが、幼稚園への行き帰りが大変であると心配する連れ合いのスミさんに、「幼稚園に行くのが楽しみで、楽しみで」なんて言っているのである。その幼稚園の職務も、早くも11月を迎えている。収穫感謝、クリスマス等のイベントを踏まえつつ、この年も終わることになる。大変かな、と思っていた園長の職務も、今は喜びつつ務めているということをご報告しておきたい。
最近とは言わないが、いつの時代でも、お亡くなりになる方がおられ、その方々を偲びつつ過ごすことが多くなっている。私も79歳になっており、70歳代最後の歩みをしているのであるが、それとなく身辺整理を心がけている。六浦谷間の集会を連れ合いと共に始めて、今年は8年になる。2010年3月に大塚平安教会を退任し、その後、4月から9月まで横浜本牧教会の代務者及び早苗幼稚園の園長を担う。その後は無任所教師として歩むことになり、その年の11月28日から六浦谷間の集会として、自宅で礼拝を捧げるようになった。我が家の子供たち、また知人が時には出席してくれる。この集会により、やがて伝道所、教会にするという気持ちはなく、この六浦谷間の集会として余生を過ごしていくことにしているのである。それでも、今まで横須賀上町教会の礼拝には月に一度、定期的に礼拝説教、聖餐式をしていた。それも2016年7月で終わることになった。同教会の先生が正教師、牧師になったからである。しかし、三崎教会は2012年8月から、隔月であるが礼拝説教を担当させていただいている。三崎教会は今後も続く様である。その他にも、時々他の教会のお招きをいただくが、原則として六浦谷間の集会が基本なのである。間もなくクリスマスである。毎年ではないが、クリスマスには知人の皆さんが出席される。大きくもない部屋で15名の皆さんと礼拝を捧げ、食事を共にすることの喜びがある。
スペイン・バルセロナにいる羊子や孫の義也君とは、毎週土曜日にFaceTimeで顔と顔を合わせて話している。義也君も1歳9ヶ月になり、部屋中を飛び回っている様子を見ることができる。お話も少しずつしているようで、羊子がこちらの名前も何とか覚えさせようとしているのであるが。12月末から1月にかけて帰国することも話し合ったが、冬は寒いし、春に延期することにしている。その春には、宮城県の陸前古川教会を訪ねることにしている。神学校を卒業して、最初の青山教会で4年間務め、その後に赴任した教会である。6年半の務めであるが、我が家の子供たちはここで幼少時代を過ごしたのである。3月17日に教会で説教をさせていただき、午後からは羊子のピアノ演奏会を開催してくれることになっている。久しぶりに家族で古川を訪問すること、楽しみにしつつ過ごしている今である。
このような日程を歩みながら、やはり、我が家で過ごすことは喜びである。今は、庭にはミカンや柚子が鈴なりに実っており、楽しみつつ鑑賞していることも付け加えておこう。
近況のつもりで記しておいた。今のところ元気にすごしていることも。



庭には柚子の実が鈴なりに。さていつ収穫しようか。



ミカンを毎日一個ずついただいている。甘くて、美味しい。



バルセロナでピアノの演奏活動をしている羊子家族は、
ドイツのハンブルクの教会に招かれ、ピアノのコンサートを開く。


ハンブルクの日本庭園で。



最近は自分からピアノに向かうことが多い。
大きくなったらピアニスト?

隠退牧師の徒然記<469>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<469>
2018年9月15日「老人は夢を見て…」



聖書の言葉
神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
新約聖書使徒言行録2章17節)



9月15日は、日本では「敬老の日」であった。しかし、今は15日ではなく、毎年異なる日になっている。今年は9月17日ということである。数年前に祝日法案が決まり、祝日は日曜日の次にして連休にしたのである。今年で言えば、1月8日の成人の日、7月16日の海の日、9月17日の敬老の日、10月8日の体育の日である。今年は8月11日の山の日も加わっている。山の日は土曜日に設定されているが、他は月曜日である。次第に休日が増えてきていることは喜ばしいことである。日曜日以外に休日がないのは6月だけである。6月は「雨の日」として休日にしたらどうだろうか。先日来の豪雨は遠慮したいが、「恵の雨」として思いを深めたいのである。
敬老の日は町内でもお祝いの集いがある。16日に開催されるが、礼拝を捧げる日であり、そうでなくても欠席するであろう。しかし、欠席でもお祝い品が用意されており、配布してくれるのである。70歳になって、大塚平安教会を退任したので、六浦の家に住むようになる。町内会から70歳以上の人の登録が求められていたが、その頃は関わらなかった。75歳頃になって、登録するようにしたが、お祝いの日は無関心であった。そうしたらお祝い品を届けてくれたのである。そうなると申し訳ないので、その日にはお祝い品を受け取りに出かけるようになったのである。お祝い品はお弁当と果物、そしてお菓子なのであるが、ありがたく頂戴するようになっている。その日は町内会の会館でお祝いの集いが開かれる。父が毎年参加していたことが思い出される。父は97歳で亡くなるが、その数年前迄参加しており、高齢者ということで皆さんがお祝いしてくれていたのである。そこで民謡を歌ったり、皆さんからの祝辞を喜んでいたのである。そんな父を思い出しながら、父と同じ年代になっていることを改めて思うのであった。
今頃になると日本基督教団の年金局から「よろこび」という会報か送られてくる。毎号には隠退教師の所感が掲載されているが、今号に一人の先生が記していることに共感を覚えている。隠退教師になって示されることは、今まで牧会した教会を訪ねてみたいということで、その先生は幾つかの牧会した教会を訪ねたということである。同じような思いを持っていたこともあり、来年に企画している訪問を喜んでいる。神学校を卒業して最初の教会は東京の青山教会であった。この青山教会には2013年11月3日にお招きをいただき、礼拝の説教をさせていただいている。大塚平安教会は2010年3月に退任している。その後、何度かお招きをいただいているが、最近では2017年8月27日にお招きいただいている。久しぶりの講壇で、昔の懐かしい皆さんも出席して下さり旧交を温めたのであった。スペインから羊子も帰国中であり、当日の奏楽は羊子が担当したのであった。昔の牧会教会といえば、宮城県の陸前古川教会であり、登米教会である。その陸前古川教会と連絡をとり、来年2019年3月17日に同教会の講壇に立たせていただくことにしている。娘の羊子は午後から同教会でリサイタルを開かせていただくことにしている。
陸前古川教会は1973年4月から1979年8月まで務めさせていただいた。我が家の子供たちもその教会で成長したのである。三番目の子供はその古川で生まれたのである。従って、古川には家族全員で訪問することにしている。子供たちも古川訪問は懐かしい訪問であり、家族全員の思いがかなえられるのである。残念ながら登米教会にはお訪ねできないが、いずれお訪ねしたいと思っている。「老人は夢を見る」と言われるが、その夢は、若かりし頃の現実に立つことであろう。それにより、昔の喜びを示されながら現実の恵みを示されることなのであろう。
それにしても来年は80歳になると言うのに、現在は幼稚園の園長を担っており、まだ神様が用いてくださっていることに驚き、感謝をしている。その幼稚園では9月14日に「おじいちゃん・おばあちゃんをお招きする日」を開いた。約60人の皆さんがお集りくださり、子供たちと楽しく過ごしたのであった。その皆さんと共に礼拝を捧げる。特に子供たちには、おじいちゃん・おばあちゃんは、長く生きて来たので、神様のお心をいっぱい示されているので、だから大切にして、おじいちゃん・おばあちゃんから神様のお心をいただきましょうとお話ししたのであった。単に高齢者だからではなく、長い人生はみこころをいただいた年月であったのである。高齢者は神様の御心を子供たちに伝えていく使命があると示されている。




2013年11月3日、青山教会にて礼拝説教。
40年ぶりに同教会の講壇に立つ。



1975年頃、陸前古川教会にて礼拝説教をしていた。



その頃の陸前古川教会。今は新しい教会になっている。



子供たちはこの教会で成長する。

隠退牧師の徒然記<468>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<468>
2018年8月31日「振り返ればお恵みを示され」




聖書の言葉
聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
新約聖書・テモテへの手紙<二>3章16節)



聖書がまた新しい訳で出版されるという。日本聖書協会が発行するもので、今までの「新共同訳聖書」に対して、「聖書協会共同訳」との名称で発行されるという。発行されるのは2018年12月ということなので、間もなくである。2010年まで日本基督教団の総会書記を担っていたが、その頃、日本聖書協会が新しい聖書を発行するということで、いろいろな提案を教団に持ち込んでいた。基本的な方向を決めるための意見、また委員会の人選等である。そのうち新しい聖書ができるのか、と思っていたが、その後は思いの中になかった。この度、キリスト教書店が新しい聖書の案内書を持ってこられて、今までの準備を示されたのである。そもそも私が小学校3年生から教会学校に通い始めたのであるが、その頃の聖書は文語訳聖書であったと思う。教会学校では、聖書の言葉は全然記憶にない。そして、中学生になった頃に「口語訳聖書」が発行されたのである。1954年であり、私が15歳の時であった。その頃、二番目の姉と結婚した義兄が口語訳新約聖書をプレゼントしてくれたのである。それはまさに新鮮な聖書であった。それからは聖書も口語訳なので読みやすく、熱心に読んだものである。中学生の頃、その新鮮な聖書を声を出して読んでいた。近くで針仕事をしながら聞いていた母が、イエス様の教えはお釈迦様と同じだというのである。母は先祖からの浄土真宗の信仰を持っており、同じような教えのキリスト教には深い理解を示してくれたのである。私はこの口語訳聖書によって信仰が養われ、伝道者への道が開かれたと言ってもよい。
そして新共同訳聖書が発行されたのは1988年であった。プロテスタントカトリックの学者が共同で訳したのであった。最初は馴染めなかったのは、固有名詞が異なっていたからである。イエス様はイエスス様である。もともとカトリック教会はイエズス様であったが、イエスス様に妥協点を見いだす。しかし、それでも馴染めないので、「イエス様」は社会にも通じており、カトリック教会が譲歩して「イエス・キリスト」として訳されるようになる。それにより各教会に浸透されるようになり、口語訳聖書から新共同訳聖書に変えられていくのである。在任していた大塚平安教会でも全面的に新共同訳聖書に切り替えたのであった。口語訳聖書では、今日では不快語が多く含まれていたので、新共同訳聖書が歓迎されたのであった。今回の新しい聖書は、今までの新共同訳聖書に対する問題提起はないので、そう簡単には切り替えられないのではないかと思う。新しい時代には新しい言葉の聖書ということで、「変わらない言葉を、変わりゆく世界に」ということで発行される。実際、ヨハネによる福音書3章に記される「イエスとニコデモ」の部分が、「聖書協会共同訳」として紹介されていた。確かに表現の仕方は少しずつ異なっている。しかし、新共同訳聖書で読んでも、聖書協会共同訳で読んでも、ほとんど同じであるという印象である。前記したように、口語訳聖書は不快語があったので、新共同訳聖書に切り替えたのであるが、今回は切り替える理由が、あまりインパクトがないようである。
聖書は長年読んでいるうちにも、必要なところには棒線が引かれ、書き込みがあり、頁の手垢がついていることで、親しみとなっているのである。新しい聖書と言っても、なかなか変えられないのではないか。教会にしても、備え付けの聖書を置いてあり、それをまた新しい聖書にするのも大変なのである。このように記しているのは、新しい聖書を反対しているのではない。変わりゆく世の中に、かわらない新しい聖書が必要であることは理解している。だから、しばらくは両聖書訳を併用しながら、聖書の神様の御言葉に向かいたいのである。
参考までに聖書を示されておこう。ヨハネによる福音書3章16節の文語訳は、「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛し給えり。すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得ん為なり。」である。口語訳聖書は、「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」と訳している。そして新共同訳聖書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と訳している。そして聖書協会共同訳聖書は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」と訳している。
ほとんど同じようであるが、新共同訳は「独り子」であるのに対し、聖書協会共同訳は「御子」と訳している。「御子」と訳しているのは口語訳聖書も同じである。
文語訳聖書、口語訳聖書、新共同訳聖書、聖書協会共同訳聖書、随分長い人生を歩んでいるようだ。確かに来年で80歳になるのだから。次に新しい聖書が出版されるのは、私が110歳の頃であるが…。




文語訳聖書



口語訳聖書



新共同訳聖書



聖書協会共同訳聖書の案内書

隠退牧師の徒然記<467>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<467>
2018年8月3日「平和を祈りつつ…」



聖書の言葉
実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうして、キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
新約聖書・エフェソの信徒への手紙2章14-16節)



今年は猛暑が続いているので、涼しさへの願いが濃い。それと共に豪雨による災害があり、被災された皆さんを祈っているのである。8月になると「平和」の祈りが増すのであるが、その祈りは猛暑の陰になっているのではないかと示されている。日本の戦争中、8月6日には広島に、9日には長崎に原子爆弾が落とされ多くの人々が亡くなっている。もはや戦争ができないと、15日には敗戦を宣言したのであった。今でも戦争の傷跡は残されているが、実際の体験者が少なくなっている。日本が敗戦を宣言したとき、私は6歳であった。そして翌年の4月には小学校1年生になったのである。私自身も悲惨な戦争の体験はない。戦争中、我が家の空の上をアメリカの爆撃機が横浜、東京方面に編隊を組んで飛んでいく様を、今でも心に示されている。そして、横浜方面の空が赤くなっているのを思い出している。私自身の戦争体験が直接にはないので、戦争を知らない人が多くなっているのである。今、世界の状況は、戦争が起きるかもしれないということであり、実際に戦争が行われており、悲惨な状況は現実になっている。
隠退牧師は夏休みと言っても、することもなく、なんとなく過ごしている。教会に在任中は、むしろ夏のイベントがあり、イベントに向かいつつ過ごすうちにも、瞬く間に夏が終わってしまうという印象であった。教会学校の夏期学校が開催される。随分といろいろなところに出かけたものである。最初の青山教会時代は、それまで出かけての夏期学校はなかったので、初めて箱根や山中湖で開催する。参加者も多く、そのことで教会学校も活気を帯びたと思う。その後、東北の宮城の教会に赴任する。やはり、今までは郊外に出かけての夏期学校はなかった。作並にある施設を利用したり、鳴子に出かけたり、栗駒山に出かけたり、夏のイベントは多くの子どもたちが参加したものである。夏期学校に参加しても、通常の教会学校には来ないのであるが、それでも夏になると夏期学校には参加するのである。
大塚平安教会に赴任したのは40歳の頃であった。まだ若い牧師である。こちらでも毎年の夏期学校は一大イベントであった。丹沢、天城、松田等に出かけたが、毎年郊外に出かけるのも大変なので、教会と幼稚園で開催することもあった。その場合にはバーベキューや流しそうめん等の楽しみがある。教会の周辺には銭湯が結構あるので、スーパー銭湯に行ったりしていた。若い頃の夏期学校と言えば、やはり「マオリハーカー」であろう。神学生時代にボーイスカウトの指導者講習会に参加して覚えたのである。ニュージーランドの現地人の踊りとか。東北の教会に在任中、教育委員にも選任され、中学生修養会を開催する。YMCAの施設が会場であり、夜の交わりで「マオリハーカー」を披露したのである。参加した中学生も、変な牧師が踊るので、一緒になって踊ったものである。見ていたYMCAの職員が、「やるじゃん」と褒めてくれたのであった。大塚平安教会においても、夏期学校と言えば「マオリハーカー」なので、参加した子供たちも喜んで踊るのであった。そのうち、教会学校若い女の先生が、酋長の娘になり、イベントが盛り上がったのであった。
夏期学校では主題で学んだことを、実際に形にしていた。ある年の主題は「平和を作りだす」であり、エフェソの信徒への手紙6章10節以下の「悪と戦え」から示されたのであった。「神の武具を身に着けなさい。立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なお、その上に、信仰を盾として取りなさい。」との御言葉を具体的に取り組んだのであった。「救いの兜」、「霊の剣」との示しもある。これらを実際に武具として作成する。兜を作っては「救い」と記している。胸当ても「正義」と大きな文字で記しているのである。こうしてそれぞれ出来上がった「神の武具」を身に着けて記念写真を写す。この写真を見て、保護者の中には「戦争教育」等と感想を述べた人もいるが、これは心に示される神の武具なのである。その後、子供たちが神の武具で身を固めながら成長してくれるよう祈ったのであった。
夏は暑い、暑いと言いながらも、いろいろと学ぶことが多かったと、昔を思い出しているのである。暑いと言ってないで、家の中で、平和を祈りつつ「マオリハーカー」を踊ってみるか。



1970年 神学校を卒業し、最初の夏期学校。
箱根の施設である。


昔の写真を捜すのは困難であるので、これ一枚にしておこう。
マオリハーカーの写真もどこかにあるのだが。