鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<466>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<466>
2018年7月7日「祈りを向けつつ…」



聖書の言葉
だから、あなたが祈るときには、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
新約聖書・マタイによる福音書6章6節)



今日は七夕ということで、何かとイベントが行われるのであろう。平塚の七夕飾りはかなり賑やかに飾られる。一度、その七夕を見学したことがあるが、何かの会議の時であり、ゆっくり鑑賞することもなく、それでも七夕飾りの通りを鑑賞しつつ歩いたのであった。七夕飾りと言えば仙台が有名である。仙台の北の町、古川市にある教会で6年半の務めをしたが、残念ながら仙台の七夕飾りは見学したことがない。仙台まで車で1時間も要するので、わざわざ出かけることもなかった。むしろ古川で七夕のお祭りがあるので、そこに見る七夕飾りで満足していたのである。その頃、我が家の子供たちはまだ小さかったので、三人の子供を連れては七夕飾りの町通りを歩いたものである。その七夕のお祭りには、必ずキリスト教と称する人々が、「死後、さばかれる」という大きな看板を掲げてねり歩いている。一方、モルモン教の宣教師がお祭りのはっぴを着て、屋台で太鼓をたたいている。モルモン教は、できるだけ町の人々に同化することを目的としているという。そういう人々を見ながら、キリスト教の牧師が家族で七夕飾りを楽しんでいるのである。まあ、とにかく懐かしい思い出でもある。
幼稚園でも七夕の飾りをしている。いくつかの幼稚園を経験しているが、キリスト教の幼稚園としては星に願いを書くのではなく、神様に向けてのお祈りである。だから、キリスト教では、自分の思いを神様に向かって書きましょうということにしている。実際、幼稚園の保護者にはクリスチャンがおられ、七夕飾りにおいて、イエス様に向けてお祈りを書くようにしていただきたいとの要望があった。もとよりそのつもりであったのであるが。豆まきにおいても、クリスチャンの保護者からご意見をいただく。どうしてキリスト教の幼稚園が豆まきをするのかというのである。そのときは、イエス様が悪魔と戦った聖書のお話を引用し、自分の中にある悪い心を追い出すために豆まきをしていることの説明をするのであった。日本の伝統的な習俗に対して、ただ否定するのではなく、キリスト教的に受け止めればよいと示されている。
その七夕飾りは、もちろん我が家ではしていないが、いつも祈りつつ示されていることがある。それはスペイン・バルセロナにいる孫のことである。知り合いから孫の様子を聞かれることがある。今は1歳半になった孫の義也君である。いつもIpadFaceTimeで画面を通して、成長ぶりを示されている。娘の羊子たちは、今まで10年にわたって住んでいた住まいから転居することになった。今まではサグラダ・ファミリア教会の受難の門側を一望しつつ生活していた。随分と知り合いがお訪ねくださっており、リビングから一望できるサグラダ・ファミリア教会に感動されていたのであった。転居した家は、今までの住まいから200メートル位しか離れていないが、サグラダ・ファミリア教会を眺めつつの歩みができなくなったことは残念でもある。しかし、ほとんど生活は変わらないので、サグラダ・ファミリア教会はいつでも行かれるし、実際、羊子はサグラダ・ファミリア教会のミサで奏楽を担当しているので、今までと変わらないとの印象である。
新しい家での義也君が、どんな思いでいるのか知りたいものである。やはり環境が異なるので、慣れない生活になるのであろう。それでも外を歩けば、今までと同じ通りであり、何ら変わってはいない、元気よく通りを歩く義也君を日本の老夫婦は目を細めて見つめているのである。いくつかの仕草も覚え、言葉をかけると、ちゃんと仕草で答えてくれるのである。いずれまた、一時帰国するのであろうが、もうそのときには重くて抱くこともできないのであろう。
バルセロナに滞在したとき、クリスマスの時期であり、通りに飾られたツリーにはたくさんの短冊がつけてあった。いろいろな願いを書いているのであろう。どこの国も、思いは変わらない。短冊を書くわけではないが、心の短冊に孫の健やかな成長を記しておこうか。




サグラダ・ファミリア教会の受難の門側。最近、十字架が取り付けられたという。



おばあちゃんと通りを散歩する。



ミサには出席しているのであるが。



くまさんと遊びつつ。




一歳半になっています。

隠退牧師の徒然記<465>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<465>
2018年6月21日「心に示されるいくつかのこと」



聖書の言葉
モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が、人の子によって永遠の命を得るためである。
新約聖書ヨハネによる福音書3章14節)



ドレーパー記念幼稚園の園長先生より連絡をいただく。幼稚園の玄関ホールに飾っていた額を取り外したことにより、その額の関係者に返したいと言われる。その額は横75センチ、縦52センチもあるのでかなり大きいものである。その中に飾られているのは藍染のテーブルセンターである。今まで飾られていたが、今では誰も飾られている意味が分からないであろう。私が退任して8年を経ているが、今日まで飾ってくれた幼稚園に感謝している。そして、もはや取り外しても当然と思っている。この額は、私がいただくことにしたのである。しかし、家の中では飾る場所もなく、書斎においているのであるが…。
1979年に大塚平安教会の牧師に就任したが、同時にドレーパー記念幼稚園の園長にも就任している。年月をはっきり記すことができないのであるが、就任してから数年後に一人のハンディキャップを持つお子さんを幼稚園で受け入れる。もともとドレーパー記念幼稚園はハンディキャップをもつお子さんを受け入れているので、比較的多くのお友達を受け入れていた。そのお子さんは目が見えない。また知的障害も合わせて持っていたのである。受け入れにあたり、先生たちと相談する。どのように受け入れるか、どのように園生活をしてもらうか等、心配すると限りない。いろいろと協議しつつ受け入れたのであるが、教職員が心配していた事柄は、園生活が始まるとすぐに解消されたのである。S子ちゃんと称するが、園生活ではS子ちゃんの周りには親衛隊がいつもいるのである。親衛隊がいろいろとお世話をしてくれて、何かあれば先生に知らせてくれるのであった。こうして2年間の園生活を送り、卒業式を迎える。一人一人が前にいる園長から卒業証書を授与されるのであるが、S子ちゃんが呼ばれたとき、一人のお友達が介助しつつ前に進んだのである。目が見えないながらも卒業証書を抱えるS子ちゃんを、お友達が手を引きつつ席に戻って行く。保護者の皆さんはS子ちゃんの存在を知っており、理解されているので、卒業証書を抱えるようにして戻って行く姿を、涙を流しつつ見守ったのであった。
幼稚園を卒業したS子ちゃんは大学付属の小学校に進む。さらに付属の中学校に進んだのであった。中学では藍染班に入り、お友達と共に藍染を行う。藍染のテーブルセンターは、S子ちゃんが作ったというのではなく、S子ちゃんが製作の一部に関わっているのである。藍染の水洗いの作業に関わったのである。そして出来上がった藍染テーブルセンターをお母さんが贈ってくださったのである。この様なお友達がいたこと、いろいろと挑戦しながら成長していること、その証しを皆さんにお知らせする意味で幼稚園の玄関ホールに飾ったのである。学校を卒業したS子ちゃんは施設に入る。その施設ではクッキーを作ってはいろいろなところに利用してもらっている。在任中、数年にわたり、クリスマスにはクッキーを取り寄せては皆さんに差し上げたのであった。藍染テーブルセンターはしばらくは語り草であったが、今では誰も知らなくなっている。今日まで飾ってくれていたことを感謝したい。これからは私の書斎にありながら、その存在を語りかけてくれるであろう。毎年、お母さんからは年賀状をいただいている。今年の年賀状には、「S子は回りの方々に恵まれて、彼女らしく、自由に明るく過ごしています」とご報告をいただいている。
この藍染テーブルセンターと共に、幼稚園の玄関ホールには、もう一つの額が掲げられている。ベニヤ板の大きさに詩が書かれている。題して「天国の特別な子ども達」である。園長に就任してまもなくであったと思う。キリスト教保育という雑誌にこの詩が紹介されたのである。当時の幼稚園の主任先生も感動され、ぜひ皆さんにも読んでいただきたいというのである。要するに、これを掲げてもらいたいと言っているのである。そこで腕を振るう。当時、教会の外には、ベニヤ板に聖句を書いては掲げていたので、すぐに作業を始める。我ながら良い出来映えであった。幼稚園の玄関ホールに掲げるようになって、どんなにか多くの人々が感動を与えられ、慰められ、励まされたことであろう。
これを引き取るとなると、我が家には置くところがないのであるが…。



S子ちゃんが製作に関わった藍染テーブルセンター。



「天国の特別なこどもたち」の詩が幼稚園の玄関ホールに掲げてある。

隠退牧師の徒然記<464>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<464>
2018年6月4日「いつも原点を示されながら」



聖書の言葉
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
新約聖書・マタイによる福音書6章28-30節)



早くも6月を迎えてしまった。5月はゴールデンウィークがあり、私の誕生日があり、母の日等もあったりして、何かと喜びを共にすることができた。しかし、連休と言っても、とりわけ計画があるわけではなく、なんとなく過ごしたものである。むしろ、連休ともなれば登山をしたこと、それは若い頃のことであり、しかし、思い出を楽しむことも連休の過ごし方である。5月の連休で登山を楽しんだのは2002年までである。丁度、60歳前後であり、連休には我が家の子供、教会の青年達と丹沢や大山登山をしたものである。ところが、2002年の10月に日本基督教団の総会書記に選任されてしまい、それからは登山が遠のいてしまう。毎年、5月になると、日本基督教団の17教区が総会を開催する。その総会に日本基督教団として、議長、副議長、書記、総幹事が分担してそれぞれの教区総会に問安使として出席するのである。そこでは総会議長の挨拶文を読み、質疑応答があったりする。4人で17教区を訪問するので、少なくとも四つの教区を訪問することになる。北海道から九州、沖縄まで出かけることになる。一泊、二泊の教区総会であり、それも5月の連休に集中するのである。教団書記を担うこと4期8年であるが、もはや登山を楽しむときもなくなってしまう。その変わりほとんど日本全国に出かけたものである。しかし、訪問先が観光地でも、観光を楽しむときもなく、総会が終わればすぐに帰ってくるのである。何しろ教会や幼稚園の職務が待っているからである。教団書記は2010年10月に退任する。もうすでに30年間務めた大塚平安教会を退任しており、隠退の身分になっていた。隠退して迎えた5月の連休であるが、70歳を迎えており、登山への思いは薄らいでいた。2011年の5月はスペイン・バルセロナに滞在しており、2013年5月はマレーシア・クアラルンプールでボランティア牧師として滞在していたのである。そして、毎年、年齢が加わるごとに登山は遠のいてしまったのである。
しかし、5月は楽しい思い出があり、いくつかの喜びの日があったりして、祝福の日々であったと思っている。そして迎えた6月は、これまた喜びの月なのである。6月は、私が教会に結びつく原点がある。このことは、今までも浪花節を語るかのように、繰り返しお話しをさせていただいている。今日も少し浪花節を語っておこう。日本の敗戦後、いろいろと混乱しつつも次第に建て直す時期である。敗戦後、母が体調を悪くして入院していた。ある日、その母を見知らぬ子供たちがお見舞いしてくれた。知らない子どもたちが病室を訪れたので、母は驚いたようである。花を贈られ、お見舞の言葉をいただく。それは6月の第二日曜日であり、教会では「子どもの日・花の日」の行事を行う。みんなで花を持ち寄り、神様のお恵みを感謝し、その花を、病院等を訪問して入院している人々に贈るのである。近くの教会の日曜学校の子供たちがお見舞してくれたのである。その後、母は退院する。ある日曜日、母はその頃小学校3年生であった私を連れて、母を見舞ってくれた教会の日曜学校に出席したのであった。花を贈られたお礼を述べ、これからはこの子が日曜学校に出席しますから、よろしくお願いしますと述べているのである。そのとき、私は何もわからぬままに、母に連れられて日曜学校に行ったのであるが、それからが大変なことになる。日曜日になると、母は私を日曜学校に送り出すのである。日曜日であり、友達と遊びたいのに、有無を言わせず、日曜学校に行かなければならなくなる。こうして、出席するようになり、自分でも日曜日になれば日曜学校に出席するようになったのである。3年生の途中からであったが、4年生、5年生、6年生では精勤賞をいただくことになる。
以上がわたしの浪花節であるが、6月はこの浪花節をしきりに発するようになる。こうして教会に結びついた私は、中学生になってから二人の姉が出席していた横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになり、そこで信仰が導かれたのであった。この清水ヶ丘教会で洗礼を受け、伝道者になる決心をしたのもこの教会なのである。6月の「子どもの日・花の日」は私の人生の原点でもある。その6月を迎えている喜びを示されつつ歩んでいるのである。日々、浪花節を語りながら過ごそうかと…。



日曜学校に通うようになり、ハイキングも参加する。
二列目の左端。



中学生になってから清水ヶ丘教会に出席するようになる。
この頃は高校を卒業していた。



若い頃は山登りを楽しんでいた。



若い頃、母をモデルに絵を描く。

隠退牧師の徒然記<463>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<463>
2018年5月15日「なんとなく迎えた誕生日」



聖書の言葉
恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。
新約聖書ルカによる福音書1章13-14節)



5月10日は私の79歳の誕生日である。もうそんな年齢になっている。70代の終わりを迎えているわけであるが、この10年間は隠退教師にあるにも関わらず激動の時代と思わされている。30年間、大塚平安教会で牧会したが、かねてより70歳になったら退任するつもりであった。そして2009年の春に、残る一年で退任することを公にしたのである。そのとき69歳であった。そして5月に70歳になり、翌年の2010年3月に退任したのであるから、予告通り70歳で退任したのであった。退任後のことはあまり考えてはいなかった。考えていたのは娘がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしているので、訪れることであった。連れ合いのスミさんは既に二回も訪れている。在任中の私は行くことができなく、退任ということから、スペイン・バルセロナを訪れることの思いが大きくなってきたのである。ところが、大塚平安教会を退任するや横浜本牧教会の代務者、付属早苗幼稚園の園長に就任することになってしまう。しかし、それも半年間であり、バルセロナに訪れることは少し延びたということである。2010年3月に退任したものの、まだ職務が残っていた、担っていたドレーパー記念幼稚園は学校法人大塚平安学園が設置者であり、その理事長の職務が残っていた。理事長は大塚平安教会に就任した牧師が担うことになっている。大塚平安教会には10月にならないと後任が就任しないのである。それから教団書記の任務も続いている。2010年10月に開催される日本基督教団総会で、ようやく退任ということになる。これでようやく大塚平安教会時代に担った職務がすべて終わりになる。16年間務めた八王子医療刑務所教誨師と神奈川医療少年院篤志面接委員は2010年3月に退任している。
さて、そこでスペイン・バルセロナに行く機運が高まる。2010年11月には行くつもりでいたが、大塚平安教会や横浜本牧教会の牧師就任式等が順次行われ、結局、2011年の春に行くことにしたのである。ところがその春、3月11日に東北関東大地震が発生し、出発を考え込んでしまう。それでも計画したことでもあり、2011年4月4日から5月18日まで、連れ合いのスミさん、娘の星子と共にバルセロナを訪れたのであった。バルセロナでは日本の災害を覚えて、支援が行われており、羊子も各地で開かれる支援コンサートで演奏するのであった。その後、バルセロナには2012年9月から11月まで、2014年10月から2015年1月までも訪れている。2013年には3月から6月まで、マレーシア・クアラルンプール日本語キリスト者の集会にボランティア牧師として赴いている。そして、2016年10月から2018年3月までは横浜本牧教会付属早苗幼稚園の園長に就任する。3月で終わることになっていたが、今度は2018年4月から伊勢原幼稚園の園長に就任してしまったのである。一年間の約束であるので、来年迎える80歳前には退任することになる。このように拾い上げると70代は激動の10年間との思いが募るのである。礼拝説教にしても横須賀上町教会では2010年11月から2016年7月まで、月一回であるが講壇に立つことになる。さらに三崎教会は2012年8月から隔月であるが説教を担当しており、現在もお招きをいただいている。横浜本牧教会は2016年10月から2018年3月までの月一回の説教を担当させていただいた。隠退牧師というのに、現役と同じように職務を担う。
70代最後の誕生日を迎えたとき、「なんとなく迎えた誕生日」の思いである。「なんとなく」は「なんと79」である。大塚平安教会時代、ファックスを導入することになったとき、電話局で番号を選ぶ。いくつかの電話番号を提示されたとき、その中に「79-3746」の番号があった。咄嗟に閃いたのは、「なんとなく(79)、みなよろこぶ(3746)」、すぐにその番号にしたのである。以来、79の数字が好ましくなっている。79歳になったとき、激動の10年間であったが、「なんとなく」歩んできた思いである。70代の最後は「なんとなく」歩みたいと思っているが、何しろ自宅から伊勢原幼稚園まで電車を利用しているが、2時間も要する。しかし、週三日の務めでもあるので、やはり「なんとなく」の職務ではないかと思っている。誕生会は5月12日の土曜日に子供たち集まりお祝いしてくれたが、翌日にはカウボーイ家族と言うレストランに出かける。そのレストランでは一週間以内に誕生日を迎えた人をお祝いしてくれるのである。誕生日ケーキが贈られ、歌まで歌ってお祝いしてくれた。周りのお客さんも一緒に手拍子を打ちながらお祝いしてくれたのであった。思わぬ誕生日のお祝いであったが、「なんとなく」最後の一年間を歩もうかと…。



30年間務めた大塚平安教会。



横浜本牧教会では一年半にわたり、月一度の説教。



2013年3月から三ヶ月間、マレーシアのクアラルンプール日本語教会のボランティア牧師を務める。



三崎教会は今でも隔月に講壇に招かれている。

隠退牧師の徒然記<462>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<462>
2018年4月22日「新緑の季節を喜び」



聖書の言葉
野の獣よ、恐れるな。荒れ地の草地は緑となり、木は実を結ぶ。いちじくとぶどうは豊かな実りをもたらす。シオンの子らよ。あなたたちの神なる主によって喜び踊れ。主はあなたたちを救うために、秋の雨を与えて豊かに降らせてくださる。元のように、秋の雨と春の雨をお与えになる。
旧約聖書・ヨエル書2章22-23節)



4月から伊勢原幼稚園の園長を担いつつ歩んでいるが、その職務を喜びながらも、なによりも車窓に見る大山と丹沢山塊の眺めを喜んでいる。大塚平安教会在任中には、大山に出かけ、丹沢登山を楽しんだものである。大山は友人たちと登ったこともあるが、それほど高くもなく、比較的楽に登れるので家族と登ったこともある。途中の阿夫利神社までケーブルカーで行けるし、そこから山頂まではそれほどきつい行程でもない。また、丹沢登山は隋分と登っているので、いろいろな思い出を持っている。友人と登り、我が家の三番目の子供、優とは数回登っている。単独の登山も数回の経験をもつ。中でも正月の元日に一人で上ったのである。登山歴を持つにしても、あまり登山の知識がないままの登山である。丹沢の塔ノ岳を目ざしたのであるが、冬山なのである。頂上に近づくにつれ雪が多くなってくる。その装備もないままに登山したのであるから、無謀というほかはない。本来ならアイゼンとかピッケルを持参する必要があった。アイゼンとは登山靴の底に鋲のついた履物をつけるのである。雪道でも凍った所でも楽に歩けるのである。その後、登山の知識を深めるようにしたのであるが。大山は登山の楽しみもあるが、麓には豆腐の料理店が並ぶ。その豆腐料理を味わうのも楽しみなのである。登山をしなくても豆腐料理を目ざして伊勢原の地を踏むこと数回はある。伊勢原と言えば大山であり、豆腐料理との印象が根強く残っているのである。
そんな昔のことを思いつつ、小田急線の海老名駅から伊勢原駅までの車窓を楽しんでいるのである。現実に伊勢原での職務が与えられているので、心して取り組みたいと思っている。去る4月19日は年長組が伊勢原にある「子ども科学館」へ見学に行く。ここにはプラネタリウムがあり、それがメインであるが、子ども科学館には楽しい科学的な遊びが用意されている。幼稚園からそこまで約30分歩くのであるが、途中の新緑を楽しみつつ歩いたのであった。帰りはその新緑の中で、しばし楽しみつつ遊んだのである。並行して思い出されるのは、早苗幼稚園時代に近くの本牧山頂公園に出かけることであった。避難訓練で、山頂公園に避難し、保護者の引き取りを待つのである。あるいは親子の遠足も山頂公園であった。そして、冬の凧揚げ大会もこの山頂公園で行う。ドングリや落葉拾いにも出かける。広大な山頂公園の新緑の美しさを示されながら、懐かしい思い出となっている。しかし、どこの地でも今は新緑を楽しむことができるであろう。
我が家の源平桃の木も今は新緑となっている。その他、我が家にはミカンの木が数本植えてある。数年前に苗を植えたのであるが、一本の木は実をつけたが、後は実をつけないまま伸びているのである。柚子は毎年豊作であり、今年も随分と花をつけている。過日、破損したビニールハウスを撤去したが、広々とした庭は緑一面となっている。その緑は雑草とフキでもある。それでも緑の庭は心を和ませてくれている。



伊勢原の子ども科学館



プラネタリウム見学後は科学的遊具で楽しく遊ぶ。



科学館への途中に緑の広場で楽しむ。



我が家の緑の牧場。フキと雑草の庭であるが。

隠退牧師の徒然記<461>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<461>
2018年4月8日「ご復活の主に導かれつつ」



聖書の言葉
信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。
新約聖書ヘブライ人への手紙11章21節)



今年のイースター、復活祭は4月1日であった。2018年度の最初の礼拝がイースターであること、誠に力強い導きとなる。どこの教会もイースター礼拝を喜びつつささげ、またお祝いをしたことであろう。六浦谷間の集会も皆さんと共に礼拝をささげたが、その日の礼拝は午後4時からであった。午前は、私が伊勢原教会の礼拝に出席するためである。伊勢原教会は、毎年、年度の初めの日曜日に、幼稚園教職員の紹介をしている。この日、教会によっては教職員の任職式がおこなわれるのであるが、伊勢原教会は紹介と言うことである。3月まで横浜本牧教会付属早苗幼稚園園長を担ったのであるが、4月からはお招きをいただいた伊勢原幼稚園の園長に就任することになったのである。紹介されると思っていたが、園長の任職式がおこなわれることになった。
伊勢原教会に関わる伊勢原幼稚園園長に就任することになったとき、最初はお招きをいただいて承諾したのであるが、いろいろと今までの歩みを示されたとき、必ずしも教会にしても私の個人の思いにしても、思いつきではないと示されている。ここに至るまで神様の長いお導きがあったことを示されたのである。神学校を卒業して東京の青山教会に赴任するが、その4年後には宮城県の陸前古川教会に赴任する。前任の牧師、後藤金次郎先生は40年間、教会と幼稚園を担ってこられたのであった。先生は退任してからは伊勢原に住むことになり、伊勢原教会に出席されていたのである。当時の高木鍋次郎牧師のお手伝いを何かとされていたようである。その後藤先生の娘さんとは何かと手紙のお交わりがあった。そして、6年半後には綾瀬市にある大塚平安教会、ドレーパー記念幼稚園に就任する。伊勢原教会は同じ湘北地区である。私が神奈川教区議長に就任し、議長は地区内の教会の牧師就任式には司式のために赴くので、伊勢原教会でも務めを果たしているし、創立記念日等で祝辞を述べているのである。さらに、伊勢原教会の牧師は横浜本牧教会の出身であり、幼稚園園舎もなんとなく早苗幼稚園に似ている。横浜本牧教会及び早苗幼稚園の建物を設計した人のお弟子さんが伊勢原幼稚園の建物を設計されたとか。まったく同じではないが、雰囲気が似ているということである。そんなことをいろいろと思いめぐらしていると、神様のお導きが長い間に示されていたことを知るのである。もっとも伊勢原幼稚園の園長としてのお勤めは一年の約束である。私自身、現在78歳であり、もう若くもなく、そんなに動けないのである。それにしても自宅から伊勢原幼稚園までは電車を利用して2時間を要する。朝6時には家を出ることになる。
朝6時に家を出て電車の乗るのであるが、その時間には多くの人が駅のホームにいる。こんなに早く出かける自分を思っていたが、世の中の人々は、早くから仕事に向かい、一日を過ごしていることを示されるのであった。今まで教会を中心に動いていて、毎日、こんなに早くから動いていなかったのである。この歳になっても職務を担うこと、神様のお導きと示されているが、やはり体を大事にしながら務めることにしたい。
もはや桜も葉桜になりつつあり、我が家の源平桃も葉が見え始めている。一時の花の美しさは、この一年の励ましであろう。春はまさにイエス様の復活のお導き、そして美しい花に励まされて歩みだすのである。



伊勢原教会の佇まい。



伊勢原幼稚園の佇まい。



イースターエッグ。スミさんが製作。



源平桃の木も若葉が目立つようになる。

隠退牧師の徒然記<460>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<460>
2018年3月30日「受難週を歩みつつ」



聖書の言葉
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
新約聖書・マタイによる福音書6章28-30節)



今年の棕櫚の主日は3月25日であった。この日から受難週の歩みとなり、主の十字架への道を示されながら歩みたい。この日の六浦谷間の集会は連れ合いのスミさんと二人でささげる。礼拝では、スミさんが聖書朗読をするし、献金感謝のお祈りをしている。教会では多くの場合、司会者が聖書朗読をする。献金感謝祈祷は教会員が順番に礼拝奉仕者としてささげるので、一人の人が毎週献金感謝祈祷をささげるのではない。それを思うと、スミさんは毎週聖書朗読と献金感謝祈祷をささげているのである。小集会のお恵みと言えるであろう。礼拝が終われば夫婦で「あなたに平安がありますように」と相互挨拶をするのである。こんな夫婦も珍しいと思っている。
棕櫚の主日と言えば、いつもスペイン・バルセロナカトリック教会のミサを思い出す。2011年4月、5月に連れ合いのスミさんと二番目の娘・星子と共にバルセロナの羊子のもとに行く。羊子はカトリック教会に出席しており、ミサの奏楽奉仕をしている。適当なプロテスタント教会が見つからなかったからである。丁度、受難節であり、私たちがミサに出席したのは棕櫚の主日のミサであった。当日は子供たちが作られた棕櫚の枝をもって教会に集まってくるのである。この時期になるとサグラダ・ファミリア教会の通りには多くの露天商が出店し、棕櫚の枝やお菓子まで売っている。子供たちは親に棕櫚の枝を買ってもらって集まってくるのである。ミサではその子供たちが棕櫚の枝をもって聖壇に上がる。神父さんと共にイエス様を迎えるのである。いよいよイエス様がお出でになったということで、棕櫚の枝を床に打ちつつ迎えるのであった。なんかお祭り騒ぎなのである。たしかにイエス様が都エルサレムに入場したときには、都の人たちは棕櫚の枝を道に敷き、あるいは上着を道に敷いて、イエス様をお迎えしたので、そのときと同じように歓呼してイエス様を迎えることは聖書的でもある。しかし、日本の教会は棕櫚の主日からイエス様のご受難が始まるということで、静かな礼拝になる。イエス様のご受難を偲ぶためでもある。イエス様のご受難は人間をお救いになるのであり、その意味では喜びつつ棕櫚の主日を迎えることも意味があるのである。
早苗幼稚園の園長としての職務は3月31日までであるので、まだ園長の責任があるが、お休みをいただいている。そのため教職員の皆さんが、いくつか決済を求める連絡をよこされた。しかし、その他は職務がないので自宅で過ごさせていただいている。休みになったら取り組みたいことがあった。それは庭に造ってあるビニールハウスの解体である。2010年4月から、この六浦の家に住むようになり、連れ合いのスミさんの要望もあり、庭の一角に物を置く場所を造った。ホームセンターで販売していたので購入し、組み立てたのである。ビニールハウスなので、年月を経過するうちにビニールが破損してくる。そこでその上からシートで覆ったのであるが、それも年月の経過と共に劣化してしまう。みすぼらしい姿になっているので、バルセロナ在住の娘の羊子が帰国中、いっそのこと解体したらと助言される。直し、直しを繰り返すのではなく、解体を決心していたのである。丁度、お休みをいただいているので解体作業を始める。なんと二日もかかってしまった。解体後は広々とした元の庭になった。おりしも庭の源平桃の花が満開であり、風光明媚な庭になったという訳。これからは暇さえあれば、庭仕事をしたいと思っているのであるが。
その源平桃の花が、今は満開になっている。夫婦だけで喜んでいるのではなく、皆さんをお招きしたいと思っていたが、不可能のようである。一本の桃の木から赤と白の花が咲くので源平桃と称している。この源平桃は父が育てたものであり、父は苗木をいろいろな人に差し上げたようである。道を歩いていると、源平桃の花が見受けられる。娘の羊子は、この源平桃の花を示されながら、「源平桃」を作曲し、日本曲をリリースしたときCDに入れている。曲を聴きながら花を鑑賞する、結構な日々である。



破損が多くなったビニールハウス。



解体後の広い庭。



今年も源平桃の花が満開になる。



日々、桃の花を鑑賞しつつ。