鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

大地震( 心が揺り動かされ )

 
 このところテレビにしても新聞にしても、1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災に関わる報道が続いています。なかでも、その後の後遺症で苦しみ、いまだに立ち直ることができない人、会社等のことが報道されています。改めて当時のことが思い出されるのでした。1月17日早朝に起きた大地震により、兵庫県南部地域は一瞬にして壊滅的な被害を受けました。日本基督教団兵庫教区では、全壊教会・牧師館は15、半壊13、一部損壊・損傷は61などの被害がありました。教会員とその家族、教会学校、附属施設関係者計84名が永眠されました。日本基督教団は直ちに「阪神大震災救援活動センター」を設置し、兵庫教区と共に救援活動を展開したのです。「阪神大震災救援募金」には、全国から2億8千万円を超える献金が寄せられました。また、兵庫教区救援募金には1億5千万円を超える献金が寄せられました。さらに会堂・牧師館再建資金募金には2億3千万円を超える献金が寄せられたのです。こうして全国の皆さんから祈りが寄せられ、教会・伝道所等の復興が導かれましたが、6,434名が亡くなり、 43,792名が負傷されましたので、悲しみは消え去ることはないのです。その頃、私は神奈川教区の副議長をしており、議長と共に兵庫教区を訪れ、お見舞いしたのでした。
 その後、2004年10月23日に新潟県中越地震が起きました。この日、幼稚園の先生が結婚式を行い、披露宴で横浜のホテルでお祝いしている最中でした。天井のシャンデリアがかなり大きく揺れていました。ホテル側の人たちはパニックになることを恐れて、平然と披露宴を進めていました。日本基督教団は「新潟県中越地震」被災教会会堂等再建支援委員会を立ち上げ、救済を始めたのであります。そして、2007年3月25日に能登半島地震が発生しました。これに対しても日本基督教団は「能登半島地震」被災教会会堂等再建支援委員会を発足させ、救援活動をしたのでした。
 地震については宮城県沖地震の際、宮城県古川市の教会におりましたので、その恐ろしさは身を持って経験しております。1978年6月12日、M 7.7の地震が発生し、特に仙台市が大きな被害を受け、死者28名でした。その地震が起きる前、小さな地震が起きていました。その日も小さな地震が起きたので、連れ合いのスミさんが子ども達の所在を確認しましたら、三番目の百合子、当時4歳がいないのです。心配してあちらこちら探し、隣のおもちゃ屋さんの店の中にいたのでした。きつく叱られて、泣きながら私の書斎にやってきました。しばらく泣いていましたが、泣きやんで寝てしまいました。それから間もなく、がたがたと縦揺れの地震がありました。反射的に椅子から立ち上がり、寝ている子供を抱き上げて、書斎は二階でしたので、階段を目指しました。階段は蛇のようにくねくねと横揺れに動いていました。ようやく外に脱出したのでした。幸い家の倒壊はありませんでしたが、家の中はめちゃめちゃでした。驚き、胸をなでおろしたのは、二階の書斎です。そこには大きな本棚が設置されていたのです。その本棚が子供が寝ていた部分に倒れていました。一瞬の出来事でした。すぐさま非難しなかったら下敷きになっていたのです。猫のクロのことを先日も書きましたが、ピアノが大きく動いて、クロが被害を受けたのか、それ以来姿を消してしまったのでした。地震は後が大変です。インフラがストップしてしまい、近くの小さな店ですが、人々が殺到し、食べ物など競って買い求めるので、おたおたして買うこともできませんでした。知人の皆さんからお見舞いをいただき、教会の皆さんにお渡ししたのでした。
 地震は、もちろん発生して欲しくありません。しかし、大地が揺れ動くことで人々の心が揺すられ、心を人々に向けることが導かれるのです。私たちが揺すられ、他者に心を向けて行くこと、何よりも聖霊が私たちを揺すってくださるのです。聖霊よ、私を揺すれと祈りましょう。
<聖書の言葉>
祈りが終わると、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
使徒言行録4章31節)