鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<480>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<480>
2019年4月29日「GWで喜ぶのは」

聖書の言葉
「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」
旧約聖書出エジプト記20章11節)

今年もゴールデンウィークなる日が巡ってきた。特に今年は10連休ということで、喜びが大きいようである。以前は、それは若い頃であるが、家族旅行をしたり、登山をしたり、大いに楽しんだものである。しかし、それも2000年頃までであり、それ以降はお休みが続いても、お楽しみのお出かけが遠のく。その頃は60歳代であり、いろいろな役職を担うようになっていたのである。1998年から2001年までは神奈川教区総会議長を務める。2002年から2010年までは日本基督教団の総会書記を担うことになる。それらの役職を担うことにより、GW中でも職務を担うことになるのである。教区議長時代は、各教会の牧師就任式とか献堂式に赴く。教団書記時代は各教区総会に問安使として出席しなければならなかった。日本基督教団には17の教区があり、毎年のことながらGW中に教区総会が開催されるのである。その教区総会には日本基督教団の四役が問安使として出席することになっている。そのため日本基督教団の総会議長、副議長、書記、総幹事が分担して出席するのである。私も書記として、8年間で北海教区、奥羽教区、東北教区、関東教区、西東京教区、東海教区、中部教区、大阪教区、兵庫教区、四国教区、西中国教区、東中国教区、九州教区等を問安したのである。北海道から九州まで日本列島を駆け回った思いである。だから日本各地の観光が楽しめたはずなのであるが、1、2泊の教区総会が終わると、観光どころかとんぼ返りで帰って来る。本業の教会や幼稚園の職務につかなければならないからである。それでも、まったく観光をしなかったわけではない。東中国教区の問安の務めが終わったとき、出雲大社を見学することができた。一度は訪ねてみたいところであったからだ。
隠退牧師になり、職務的には何の責任もなく、ゆっくりと各地の観光地を訪ねたいと思っているが、年齢的にも腰が重くなっている。ましてGW中は混雑の盛りであり、そういう場所には出かけたくないのである。今は伊勢原幼稚園の園長を担っているが、家から幼稚園まで電車を利用して2時間を要している。電車を利用しているのであるが、人の多さに驚いているのである。横浜駅では満員電車からあふれ出てくる人々、乗り換えのために構内を歩く人々の多さに、驚くやら心労も出てくる。世の中の人々は混雑を乗り越えて職務に励んでいることを示されるのであった。
今は散歩の楽しみで十分である。この界隈も観光名所が存在しているので、歩く楽しみがある。鎌倉まで歩いたこともある。2時間も歩けば結構楽しめる観光スポットがある。鎌倉、野島、金沢文庫、稱名寺、八景島、そして鷹取山から神武寺へと歩いては楽しんでいる。普段は1時間程度であるが、混雑がない散歩が何よりの楽しみなのである。若い頃は丹沢山塊を登っては楽しんでいたが、今は登山への思いはない。さて、このお休みをどのように過ごそうか。庭の雑草取りも予定には入れている。

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散歩で野島公園でひと休み。

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野島の室の木公園。桜の時期は楽しい集いが開かれている。

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鷹取山から神武寺へのハイキングコース。一時帰国中の羊子の連れ合いと。

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ハイキングコースであるが鎖場の難所もある。羊子と共に。

 

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隠退牧師の徒然記<479>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<479>
2019年4月22日「イースターを喜びつつ」

聖書の言葉
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられ頃、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
新約聖書ルカによる福音書24章5-7節)

4月21日はイエス・キリストの復活祭(イースター)である。今年もイースターをお祝いすることができ感謝している。クリスマスは社会的にも知られており、むしろ教会より賑やかにお祝いされている。別にクリスマスの意味を知らなくても、贈り物や喜びあうことでクリスマスを迎えたことになる。それに対してイースターは、社会的には一向に盛り上がらない。イースターツリーもなく、イースターソングもなく、盛り上げる要素がないのである。しかし、教会では大事なお祭りとして迎えている。イースターとはイエス・キリストが死んでからよみがえったということのお祝いなのである。暗い社会に現れたイエス様は、人々に喜びと希望を与える。しかし、時の指導者たちの妬みにより十字架に架けられ、殺されてしまうのである。そして埋葬されるが、三日目に死者から復活する。科学的には理解できないが、神様がイエス様を復活させ、今も生きておられることを信じているのがキリスト教の信仰なのである。生きておられるイエス様が、現代に生きる人々を導いておられる信仰は、平和の根源であり、人間の基本的な歩みを示されるのである。
このようなイースターの示しは社会には浸透しない。キリスト教の人々だけが、イースターをお祝いすると言う訳である。しかし、社会の中でも「イースターエッグ」を手にされる方がおられる。キリスト教幼稚園ではイースターのお祝いにはイースターエッグがプレゼントされる。イースターの意味をお知らせし、子どもたちが持ち帰ったイースターエッグで、なんとなくお祝いの意味を示されるであろう。そのイースターエッグ作りは、楽しみつつ関わるのである。六浦谷間の集会では、出席者が多くいないので、それほど沢山は作らない。それでも知人が数人出席することがある。そんな時には20個くらいのイースターエッグを用意するのであるが、今年は知人の出席はないので10個くらいにしておいた。その作業は連れ合いのスミさんが行うのであった。
イースターエッグ作りと言えば、前任の大塚平安教会時代を思い出す。毎年150個くらいは用意していた。教会学校の先生たちや青年の皆さんが集まり、楽しみつつ作るのであった。そしてイースター礼拝に出席された皆さんにプレゼントする。残ったエッグは牧師夫婦が、礼拝には出席できない教会の皆さんにお届けするのであった。連れ合いのスミさんは、近所の皆さんにも差し上げていた。中には子どもの頃、教会学校に出席していたので、そのころ卵をもらったという人があり、歴史を示されるのであった。
フランスのノートルダム大聖堂が火災となり、重要文化財が消失したことは、悲しむべきことである。数年前にこの教会を見学した時、イースターが彫刻で掲げられていた、それはどうしたのだろうか。彫刻は消えても今も生きるイエス様への信仰は消えないのがキリスト教なのである。

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六浦谷間の集会のイースターカード

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お祝いのイースターエッグ

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フランスのノートルダム寺院に掲げられているイースターの彫刻

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ノートルダム寺院の前で記念撮影。2011年4月。

 

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隠退牧師の徒然記<478>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<478>
2019年4月15日「いろいろな歩み出し」

聖書の言葉
「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥しをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。」
新約聖書ルカによる福音書13章8-9節)

4月を歩みだしているが、2019年度の始まりである。本来、この3月で担っている幼稚園の園長を退任する予定であったが、いろいろな事情があり、2019年度も担うことになった。その幼稚園では先日の10日には入園式が行われ、新しいお友だちを迎えて歩みだしている。道を歩けば真新しいランドセルを背負った一年生がお友達と共に、また保護者と共に歩いている。その姿を見るだけでも新しい歩みだしを示されるのである。
昨日の14日はキリスト教では「棕櫚の主日」と称し、イエス・キリストが十字架への道、受難へと向かう記念すべき日でもある。今年の復活祭、イースターは21日である。その前の40日間は受難節であり、キリストの受難を偲びつつ歩むのである。だいたいは、4月の始まりは受難節の最中なのである。3月中に復活祭を迎えるのは、2024年3月31日、2032年3月28日、2035年3月25日である。その他は、4月はキリストの受難を偲びつつ歩みだすのである。このことは大事なことでもある。キリストの受難は人間を救うためなのであり、そのために十字架に架けられたことになる。人間の自己満足、他者排除の根本的の姿勢を持つ人間を救うために十字架に架けられたのであった。今年度も受難節をもって歩みだしているので、この一年、他者の存在を受けとめつつ歩みたいと示されている。
その14日には、六浦谷間の集会に、3名の知人が出席され、わが家を含めて8名で棕櫚の主日の礼拝をささげたのであった。礼拝後は食事をいただきながら、親しく歓談をしたのである。日本の教会は受難節ということで、質素な生活をしつつ過ごす場合が多い。キリストの受難を示されれば当然なのかもしれない。しかし、キリストの受難は私たちの大きな喜びなのである。このご受難があって、救われた喜びを持って歩んでいるからである。そうであれば、2019年度の歩み出しは喜びつつ出発したいのである。
我が家の源平桃の花については前回のブログでも紹介しているが、今は葉が生えて花が散りつつある。桜が終わり、源平桃の花も終わるのであるが、我が家の庭には「姫りんご」の花が満開となっている。昨年度は10個くらいの姫りんごが実ったが、今年は沢山の姫りんごが実るであろう。冬の柚子、春の源平桃の花、そして姫りんごと続く我が家の庭を楽しみにしている。ミカンの木も、昨年は1個しか実らなかったが、今年はたくさん実りそうでもある。
いろいろと希望を持って歩みだしている。後一ヶ月もすれば80歳になるのであるが、いろいろな歩み出しと共に希望がある。さあ、曲がりそうな腰をまっすぐにしようか。

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姫りんご。今年は花がたくさん咲き、豊かな実をつけそうだ。

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一つしか実らなかったミカンの木。でも今年はたくさん実りそうである。

 

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隠退牧師の徒然記<477>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<477>
2019年4月6日「源平桃の花が咲き」

聖書の言葉
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び踊れ。砂漠よ、喜び、花を咲かせよ。野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ、大いに喜んで、声をあげよ。人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。
旧約聖書イザヤ書35章1-2節)

鈴木家の庭には三本の源平桃の木が植えられている。毎年、今頃、3月の末頃から4月の初めころまで、一本の木から赤と白の花が交々に咲き、楽しませてくれる。3月6日から26日まで滞在したスペイン在住の娘の羊子家族は、この源平桃の花を鑑賞したかったのであるが、羊子たちが帰ってから咲き始める。もっともぼつぼつ咲き始めてはいた。羊子が源平桃の花を見つめるとき、彼女は源平桃の姿から、「源平桃」を作曲し、リサイタルで演奏しては皆さんに喜ばれている。同じ木からまったく違う色の花が共存すること、平和の象徴であることを示されて作曲したという。
鈴木家に源平桃が咲くのは私の父の所産でもある。昔、今は住宅になっているが、山の中腹に畑を作っていた。その畑に源平桃の木があった。今は住宅が建ち並び、源平桃の木も無くなっているが、父はその源平桃から苗木を作り、庭に植えておいたのである。苗木は知人にも差し上げているので、この界隈を歩くと、あちらこちらで源平桃の花が咲いている。必ずしも父が差し上げた源平桃ではないかもしれないが、父の所産として眺めている。苗木は檀家でもある寺にも寄贈しており、それが今ではかなり太く、大きな源平桃の木になっているのである。墓参にはその源平桃の木を眺めることも習慣としている。
父が亡くなったのは4月初旬であり、丁度、源平桃の花が満開の頃であった。棺を送り出すとき、その頃は畑にある源平桃であったが、三番目の姉の朝子がその枝を棺の上に置いたことが思い出される。父は源平桃のように穏やかな人柄であったと思う。
その父は金婚式、ダイヤモンド婚式には自ら色紙に鶴や亀の絵を描いてお祝いしていた。子供ながらあまりお祝いしなかったようで悔やまれる。両親が結婚するのは父が33歳頃のようだ。それからダイヤモンド婚式の60年後は、母が90歳にもなっている。母の89歳の時にダイヤモンド婚式を迎えたのであるから、夫婦の鏡ともいえよう。父は母をおくり、97歳まで長寿を全うしている。願わくは両親に続きたいと思っている。今年の3月に我々夫婦は金婚式を迎えたことについては前回も記している。源平桃の花の頃になると両親のダイヤモンド婚式が示されるのである。
鈴木家の源平桃の花はご近所でも楽しんでくださっている。見知らぬ人が写真に収めたりしている。父の所産は多くの人々を喜ばせているが、父の孫が「源平桃」と題して作曲し、各地で演奏していること、父が知人に苗木を差し上げたように、人々の心に源平桃の花をお届けしているようだ。今日もどなたかが「源平桃」のピアノ演奏を羊子のCDで聞いてくださっているであろう。そうすると「源平桃」は羊子が滞在するスペインばかりではなく、イタリア、アメリカ、ドイツ、フランス等、そして日本の各地で花が咲いているのである。この曲の主題「平和」が世界の隅々まで浸透することを祈っている。
 

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鈴木家の庭に咲く源平桃の花

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毎年、3月末から4月の初めに咲き楽しませてくれている。

 

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隠退牧師の徒然記<476>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<476>
2019年4月2日「さらにまた」

聖書の言葉
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。
新約聖書ヘブライ人への手紙11章1-2節)

ブログをしばらく書かなかったのは、利用している「はてな」の会社が取り組みを変更したからである。新しいシステムに変更するのが面倒で、変更しても書くこともなかった。しかし、記録に残しておきたい歩みがあり、やはり「さらにまた」書くことにしたのである。閲覧してくださる皆さんには、心から感謝しているし、まだ元気に歩んでいることの報告をさせていただくのである。
昨年3月までは横浜本牧教会付属早苗幼稚園の園長を務めており、これで現役も終わると思っていたが、求められて4月からは伊勢原幼稚園の園長に就任してしまった。それも一年間ということであったが、「さらにまた」一年間務めることになり、新年度を迎えている。新年度を迎えるのであるが、その前にいくつかのことを報告しておこう。スペイン・バルセロナに在住している羊子家族が一時帰国することになった。3月6日から26日までの20日間である。短期間であるが、2歳になる孫の義也の成長を見てもらうためであり、もう一つは両親の金婚式のお祝いのためでもある。せっかく帰国したので、二つの場所で羊子のピアノリサイタルを開かせていただくことになったのである。一つは、私が職務を担っている伊勢原幼稚園である。それは3月9日に開かせていただいた。幼稚園の保護者の皆さんに呼びかけたが、今まで関わった大塚平安教会、横浜本牧教会の皆さんもご来場くださり、知人等も大勢ご来場くださり、幼稚園ホールが満たされたのであった。皆さんから喜ばれたことは、私たちも大きな喜びであった。
それからもう一つのリサイタルは宮城県の古川で開催される。実は、この古川にある陸前古川教会には6年半であったが牧師として務めている。もはや40年前のことである。我が家の子供たちも幼稚園時代、小学生時代を過ごしており、かねがね、懐かしい古川を訪ねたいと話していたのであった。それが実現したのである。同教会に打診したところ、ぜひお出でいただきたいとのことであったので、3月17日に設定したのである。午前の礼拝では説教を担当させていただく。そして午後からは羊子のピアノリサイタルが開かれることになったのである。16日の土曜日に家族がレンタカーで向かうことになった。しかし、私は幼稚園の卒園式があるので、終わり次第に電車で赴いたのである。
40年前の古川を心に示されていたが、今は全く変化した古川になっていた。当時は古川市であったが、市町村合併により大崎市になっている。在任の頃に東北道が開通して利用していたが、新幹線はその後に開通している。仙北地方と称していたが、高速道や新幹線を古川で利用でき、町の発展は驚くばかりであった。教会も新しく建てなおされ、昔の面影はどこにもないのである。それでもいくつかの商店等は昔の姿であった。知人の皆さんはお変わりなく、しかし、40年の歳月を加えることになる。当時、出席していた皆さんがご来場くださり、久しぶりの対面となる。中学生、高校生の皆さんが、今は社会人となり、家庭を築いている。仙台にお住いの皆さんは、車でも電車でも1時間は要するのであるが、お出でくださったのであった。教会でのリサイタルについては大崎タイムスが記事で紹介してくれたので、新聞をご覧になってご来場くださった方もおられる。40年前はホテル等はなく、旅館が数件であったが、今はホテルを決めるのに迷うほど存在している。その中でもホテル・ルートインで二泊する。そして、18日には帰路についたのであるが、その前に、羊子が4年生まで在学した古川第二小学校に寄ることになった。羊子があらかじめ連絡しておいたので、校長先生、教頭先生が応対してくださる。丁度、6年生の卒業式の練習中であり、求められて皆さんの前でピアノの演奏をしたのであった。
古川訪問は、実は金婚式の記念でもあった。そのために企画したのであるが、良いひと時を持たせていただいたと思っている。そして、3月21日には我が家で子供たちが金婚式をお祝いしてくれたのであった。これらの昔を示されながら「さらにまた」新しい年度の歩みをしたいと思っている。

 

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金婚式を迎え、子ども達から記念の写真額を贈られる。

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伊勢原幼稚園でのピアノリサイタル

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宮城県の陸前古川教会で礼拝説教。40年ぶりの講壇。

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            2歳になった孫の義也君

隠退牧師の徒然記<475>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日~)<475>
2019年2月2日「この道を歩きつつ」

聖書の言葉
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」と。
旧約聖書イザヤ書30章21節)

2019年も2月を迎えている。今年はインフルエンザが流行しているが、どうやら今年はかからないでいる。昨年は年末から年始にかけてスペイン・バルセロナ在住の羊子家族が一時帰国していた。羊子の彼、イグナシオと息子の義也である。義也は2月12日が誕生日なので、まだ1歳にはなっていない。お正月に来てくれたのであるが、どうも体の調子が良くない。それで医院で診察してもらったらインフルエンザであった。たいした熱もなく、咳もあまり出ないので油断していたこともある。羊子家族に移らないように、なるべく交わらないようにしていた。彼らが帰国しても、移っていないようで安心したのであった。どういうわけか、お正月頃になると風邪を引く様である。今年も風邪気味なので医院に診察してもらったがインフルエンザではないということであった。いわゆる風邪のヘルペスが鼻にできてしまい、鼻の傷状が気になる。幼稚園の子供たちも園長の鼻の傷が気になるようである。「どうしたの」と聞かれるのであった。そのため幼稚園でも、鼻の傷を隠すためにもマスクをしていたと言う訳。その幼稚園も風邪やインフルエンザが多くなり、1月28日の午後から31日までは休園としたのであった。
2月を迎え、2月4日は立春であり、なんとなく希望が出てきている。やはり寒い時期は身も心も消極的になってしまう。幼稚園に行く日は朝の6時前には家を出るのである。まだ暗い。その時間、歩いている人はいなくはないが、なんとなく物騒な思いを持ちながら駅まで歩くのである。家から幼稚園まで電車で通っているが、約2時間を要する。六浦駅で電車に乗る頃はまだ暗いが横浜駅に着くころは明るくなっている。そして幼稚園のある伊勢原駅に着くころは朝日をいただきながら歩くのであった。
六浦駅まで、今の足で15分くらい歩くのであるが、間もなく80歳になる身で、まさか通勤の道になるとは思わなかった。小学校を卒業したとき、公立中学に進む所、私立の中学に進む。今は「能見台駅」と称しているが、その頃は「谷津坂駅」であった。六浦駅から三つ目の駅である。3年間電車で通学したのであるが、高校はといえば「弘明寺駅」である。六浦駅から八つ目の駅になる。そこでも3年間通学することになるので、6年間は自宅から六浦駅を行き来したのであった。そして、今になってもこの道を行き来していることに不思議な導きと言うものを感じているのである。線路わきの道を駅まで行き来するときいろいろな思い出がよみがえってくる。まだ小学生の頃、夕刻になって雨が降ってきたので、母に言われて父の傘を持って六浦駅まで向かった。間もなく駅に着こうかと思う頃、後ろの方で声がしていた。振り返ると、遥か向うの方で父が私を呼んでいるのである。どうやら父とは行き違いになったようである。200メートルはあろうかと思われる。今でも、その父の呼び声が耳から離れない。この六浦駅までの道を歩くとき、いつも示されている遥かなる父の呼び声である。
もう一つの思い出も忘れられない。中学になると姉たちが出席していた横浜の清水ヶ丘教会に出席するようになる。小学生の頃は関東学院教会の日曜学校に通っていたのである。教会には二番目の姉、清子と一緒に行くことが多かった。六浦駅に向かうとき、一団の女の子たちに出あうのである。小学校2、3年生くらいの二人の女の子は、二人とも妹がおり、いつも連れ立って関東学院の日曜学校に行くようである。私が聖書と讃美歌をむき出しに持っているので、こちらの様子を認識していたようである。そのうち、会うごとに会釈するようになっていた。妹たちが寄り道したりしているので、姉の清子が声をかけたりしていたのである。何ともかわいらしい姉妹たちであった。高校生の頃になると、日曜日の教会通いは早めに行くようになり、その後は会うこともなくなっている。この道を歩くたびに、あの可愛い姉妹たちを思いだすのであった。
そんないろいろなことが思い出される道であり、まだ暗い道でも、ほのかな温かみを感じるのであった。「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」と主の言葉を聞こえてくるようだ。

 

隠退牧師の徒然記<474>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<474>
2019年1月4日「ナルドの香油をささげつつ」



聖書の言葉
「イエスがベタニアでシモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女性が純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。」
新約聖書・マルコによる福音書14章3節)



2019年が始まり、やはり、この一年も何とか歩みたいと思っている。今年は日曜日が1月6日なので、六浦谷間の集会の週報も新年になって作成する。六浦谷間の集会を始めたのは2010年11月であるが、最初から週報を発行しなかった。当初は礼拝順序を記した程度のものであった。そのうち、その程度のものに写真等を入れたとき、我が家の子供たちが、大塚平安教会時代に発行していた週報みたいになるのかね、なんて言ったことがきっかけとなる。早速、週報として発行したのは2011年5月29日であった。週報を発行するものの、教会でもなく、報告にしても消息にしても、集会案内にしても、ほとんど書くことがない。それでも鈴木家を中心に、何かと報告を書くようにしたが、それでも空白が多い。そこでスペイン滞在記をブログで公開していたので、週報にも滞在記を記すようになったのである。当初は主題や聖句を定めなかったが、2014年の週報から年主題と聖句を週報に掲載するようになった。
2014年の主題は「一生信仰」とし、聖句は詩編73編28節、「わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。」である。2015年の主題は「賜物に専念する」とし、聖句はローマの信徒への手紙12章6節、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています。」である。2016年の主題は「お恵みを感謝しつつ」とし、聖句はコリントの信徒への手紙<二>12章9節、「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。」である。2017年の主題は「神様のお導きに委ねつつ」とし、聖句はガラテヤの信徒への手紙5章25節、「わたしたちは、霊の導きに従って生きているのなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」である。昨年の2018年の主題は「キリストの香りを放ちつつ」とし、聖句はヨハネの黙示録5章8節、「この香は聖なる者たちの祈りである。」である。
さて、今年の主題はどの聖句で示されるかである。示されたことは大切な物をささげつつ歩むことである。そこで2019年の主題は「ナルドの香油をささげつつ」とし、聖句はマルコによる福音書14章3節、「一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油をイエスの頭に注いだ。」とした。ここで訂正しておきたいのは、2017年の聖句はローマの信徒への手紙として記していたが、ガラテヤ書であった。一年間、誤りのまま掲載してしまった。
「ナルドの香油」は一人の女性が、イエス様の頭に高価なナルドの香油を注いだということで、お弟子さんの中には、「もったいない」ということで、その行為を批判した。売れば大金になり、それを貧しい人々に施すことができると言うのである。それに対してイエス様は、この女性の行為を評価し、貧しい人達はいつも側にいるので、いつでも施しができる。この女性はイエス様の埋葬の準備をしてくれたと言われたのであった。すなわち、十字架への道を備えてくれたと示しているのである。そのために高価な香油をイエス様にささげたということである。これこそ立派な信仰なのである。イエス様のために、私たちは何をささげられるか。私達の高価なささげものとは何であるのか、いつも問われていることである。
讃美歌にはこの聖書を基にしたものがある。54年版は391番、讃美歌21は567番である。この讃美歌を愛唱讃美歌にしているので、大塚平安教会を退任するとき、送別会では聖歌隊が合唱してくださった。普通の生活でも口ずさむこともある。2011年の4月から5月にかけてバルセロナに滞在した。娘の羊子がピアノの演奏活動をしているからである。その時、羊子は私達をパリの三大美術館に連れて行ってくれた。そして、ルーブル美術館でこのナルドの香油を題材した絵画が展示されていたことでは大きな感動が与えられたのであった。
私にとって、「ナルドの香油」とは何であるか。新しい年は私が持っている香油を発見することである。




ルーブル美術館に展示されている「ナルドの香油」の絵画。



絵画の前でしばしたたずむ。この絵はヨハネによる福音書を題材にしている。
ヨハネは足に香油を注いだが、マタイとマルコは頭に注いでいる。